ハルスの手紙
01.
(前略)
唐突に遺跡調査の依頼が入って、本当に申し訳ないと思ってる。
けれどこれも仕事だから、分かってもらいたい。
この遺跡の調査がひと段落ついたら、今度こそビリトを連れて会いに行こうと思う。
だからそれまで、待っていて貰えると嬉しい。
いつもきみを待たせてばかりで、本当にすまない。
ハルス.
a.
セイレーン海と呼ばれる青く美しい海の上。
一隻の小舟に、若い男が一人乗っている。
眼鏡をかけた生真面目そうな男だ。
深い深い海の底を眺め、水面の水を少しだけすくい取ってみる。
「冷たい・・・」
常に温暖な気候の場所に位置するにも関わらず、肌が裂けるのではないかと思うほどの冷たさに、思わず声を漏らす。
男はすぐさま手荷物を漁り、取り出した手帳にその記録を細かに記してゆく。
海の色、触れた時の感触、温度計で測った温度、海の深さ。
このセイレーン海については十分と呼べるほどの記録ではあったけれど、男の目的はこの海域についてではなかった。
ぷかぷかと浮かぶ舟の上で、最早やることを失くした男は本を読み始める。
そうして時間が緩やかに過ぎて行き、日が傾くころには「今日も駄目だった」と、溜息交じりに舟を漕いで海岸へ戻る。
最近は毎日その繰り返し。
手帳のバツ印が増えていくばかり。
いつもの様に男は本を読む。
そろそろこの本も読み終わってしまうな。
くだらないことを考えながら、終に読み終わってしまうと、丁度今日も日が傾き始めた。
「今日も駄目だった」
溜息交じりに男は舟を漕ぎ始める。
「・・・」
水面が少し揺れたことに、この時の男はまだ気付かない。
b.
海面を揺蕩う一隻の小舟。
その舟に乗る一人の男。
彼の名はハルス。
若かりし頃の彼は、精霊についてを研究していた。
このセイレーン海に棲むという海の精霊、そして、精霊によって姿を変えられた人間の成れの果て、半精霊。
海の半精霊はマーメイドと呼ばれ、その涙は不老長寿の秘薬と言い伝えられていて、彼らは人の手の届かない深海で平和に暮らしているという。
「!?」
唐突に、下から突き上げられるような衝撃に、ハルスは舟につかまる。
しかし、運悪く眼鏡を海へ落し、拾おうと手を伸ばしたもののあと少しの所で拾うことができなかった。
「っ・・・しまった・・・あれが無いと」
手を引き上げようとした時、温かい何かがハルスの手を覆った。
「ごめんなさい、前を見ずに泳いでいたらぶつかってしまって・・・」
目の前に何かが居て、手を包み込んでいるのは分かったが、それがなんなのか視界のぼやけたハルスには認識することができなかった。
「きみは?」
「きゃっ!」
声を出すとその生物は覆っていた手を放し、少し距離をとる。
距離を取ったことでぼんやりと声の主の輪郭を伺うことが出来た。
「吃驚! アナタも私達と同じ言葉を使えるのね!」
「あ、ああ」
水面から髪の長い女性が上半身を出しているように見えるけれど、まさかそんなはずは・・・。
「私はティア! アナタは?」
「俺は、ハルス」
「ハルス! アナタってもしかして人間? このぷかぷか浮いているの、生き物かと思ったけどもしかしてこれが舟ってやつ?」
「ああ・・・えっと、きみは――」
「ハルス、どうして目を細めてるの? 怖い顔だわ、私何かしたかしら?」
ティアと名乗った声の主は、ハルスの質問を聴きもせず、疑問に思ったことを直ぐ口にした。
「すまない、さっきの衝突・・・? で、眼鏡を落としてしまって、きみの姿がちゃんと見えないんだ」
「眼鏡? それって何?」
「こう、目に付ける、こんな形をした・・・」
「この辺に落としたのよね? 取ってきてあげる! 四角いのが二つある奴ね!」
「とって来るってきみ、もう海の底に・・・っておい!」
ザバンッ! と、大きな音と水しぶきを立てると、ティアは水中へ潜った。
身を乗り出すような姿勢で海の底を見つめるけれど、やはり様子を伺うことは出来そうにない。
「・・・彼女、ティアって言ったな・・・。大丈夫か?」
c.
濡れた眼鏡を袖で軽く拭き、恐る恐る掛け直す。
すると、先程まで会話していた相手の姿がハッキリと映り、ハルスの脳を刺激した。
驚きで息を止めてしまった、というのも間違いではないけれど、それ以上にもっと大事な何かを奪われたような感覚に呼吸の方法さえ忘れてしまったのだ。
「どうしたの? ハルス」
「あ、いや」
小首を傾げ問いかけるティアの仕草に、大きく肩を震わせ目を逸らす。
何処を見るでもなく目線を泳がせていると、ずいっ、と顔を引き寄せられ、なにが起こったのがを理解した時には、彼女の顔が鼻先がぶつかるのではないかという程近くにあった。
「人と話す時は目を合わせるモノよ? 教わらなかった?」
「すまない・・・。その、眼鏡、取ってきてくれてありがとう」
一度目を合わせてしまったら、もう目を離すことは出来そうにない。
吸いこまれるようにじっとティアを見つめたまま、ハルスは少し不機嫌そうな顔をして何とか言葉を絞り出した。
「どういたしまして!」とにっこり笑うと、ハルスの頬を覆っていた手は退けられた。
「アナタ、ここ最近ずっとこの海でぷかぷかしてたわよね? あ、ぷかぷかしてるのは舟だったわね。でも、ずっとここで何かしてたでしょう? 最近よく見かけるからちょっぴり気になっていたの」
「・・・・研究を、しに。学者なんだ」
「へえ、両親が教えてくれたわ。いろんな謎を解き明かしていく人たちでしょう? ハルスってすごいのね」
「まだ大したことはしていない・・・」
「じゃあ、これからすごい人になっていくのね。ところで、何の研究をしにここに? あっ、ごめんなさい、質問ばっかりしてしまって!」
「いや、いい。・・・本当は精霊やマーメイドについての研究をしにきた。でも」
「・・・でも?」
「~~~っ・・・・なんでもない」
ふいっ、と顔を逸らすと、覗き込むようにティアは移動する。
ハルスも負けじと顔を逸らし続けていると、次第に彼女の顔は膨れていった。
「研究はもういい」
「そうなの?」
「今は、きみと話をしたい・・・」
「・・・奇遇ね、私もハルスともっとお話したいわ」
舟に肘をついて、ティアはにっこりと笑みを浮かべる。
少しだけ目を逸らしがちに、ハルスは眼鏡を触った。
「きみはマーメイド・・・半精霊だろう? 半精霊は基本的に人間が精霊の奇跡の力によって昇華した存在なハズだ。どうしてきみは人間について知らないんだ?」
「そうね、精霊様が気に入った人間を美しい姿へと変えて下さったと、両親から聴いたわ」
「両親? ティア、きみはもしかして半精霊同士の間に生まれたのか?」
「そう。生まれた時からマーメイド。人間については仲間達から聴いた話でしか知らないの。精霊様は人間を嫌ってらっしゃるから、本当はこうやって会って話すのもいけないらしいわ。おかしな決まりよね・・・って、何をしてるの?」
「っ・・・、すまない。ついいつもの癖でメモを」
「私、なにか面白い事言ったかしら?」
「半精霊から生まれた半精霊なんて、前例がないんだ」
「そうなの? 私の住む珊瑚の城ではよくいるけれど・・・」
「そもそも精霊も半精霊も人の前に姿を現すことが無い。人間からしてみればきみ達は未知の存在だ」
「じゃあ一緒ね」
「一緒?」
「私達みたいな生まれつきマーメイドだった子にとって、人間は未知の存在よ? 皆なんにも教えてくれないもの」
「そこまで人間の事を聴かないのか?」
「少なくとも、アナタの様に友好的な人間が居るなんて一度も教わったことが無いわ」
「・・・そりゃあ、そうだろうな」
人間の醜い欲望の存在を思い出しながら、ハルスは苦笑気味に眼鏡に触れた。
そんな他愛もない会話は、二人にとってとても有意義な時間で、気が付くと空は茜色に染まっていた。
「そろそろ帰らないと」
そんなハルスの呟きに、ティアは少し物足りないと言った顔をして「そう・・・」とつぶやき返す。
彼女の寂しそうな姿を見て、未だ舟に腕を乗せているその手を取り、真っ直ぐに顔を見つめて「また明日も来る」と短く言った。
たったそれだけの事でも、ティアは満面の笑顔を浮かべ、嬉しそうに頷く。
それがたまらなく嬉しくて、愛おしくて、自然と笑みが零れた。
「それじゃあ、また明日!」
「ああ」
手を大きく振るティアに、小さく振りかえすと、直ぐにティアは水中に潜って行った。
その影が見えなくなるまで見送ると、ハルスは直ぐに舟を漕ぎだした。
d.
初めて出会ったあの日から、ほぼ毎日、ハルスはティアの待つ海を訪れた。
緩やかに時は流れ、次第に二人の心は示し合わせたかの様に近づいて、いつしか寄り添い合う。
自分でも恥ずかしい程に甘く、素直な言葉を、何度も何度も口にして、それに彼女は頬を染めて笑った。
けれど、人間と半精霊、幸せな時は長くは続かなかった。
ハルスが当初の目的であったはずの海の精霊と初の邂逅を果たしたのは、ある日の夕暮時。
姿を視認することも儘ならず、脳に直接響き渡るような精霊からの警告にハルスは頭を抱え船上で蹲った。
ティアは中空へ向けて縋るように声を荒げているのが分かる。
「さっきから聴いてれば、勝手な事ばかり・・・!」
何とか絞り出したその言葉に、ティアは振り向き傍に駆け寄った。
「無理をしないでハルス! 仕方がないの、私が決まりを破ったのがいけないのよ・・・。だから精霊様、どうか彼に酷い事をしないでください!」
ティアが強く手を握ると、頭の痛みがほんの少しだけ和らいだように感じられた。
それが例え錯覚だったとしても、ハルスにとってはそれで十分だった。
「そんな決まり事自体、お前の勝手な都合だろう!」
何処に精霊がいるのかはわからない。
それでも傍に確かに存在する気配に向けて言い放つ。
すると先程までの痛みはスッと引いていった。
「? ・・・何が・・・」
「・・・ハルス、大丈夫?」
「あ、ああ。もう、頭痛もしない。一体何が?」
「精霊様、怒って帰ってしまったわ。・・・ごめんなさい」
俯くティアの頭を優しく撫でる。
無言のまま返事をしなかったけれど、言葉を口にする必要が無い程に、ハルスの手は優しくティアを包んだ。
「俺のことは良い。それより、ティアは平気なのか? その、精霊を怒らせて・・・」
「・・・暫くは城に入れてもらえないかもしれない」
「でも心配しないで!」と作り笑いをするティアの頬をむにっと抓ると、彼女の目を真っ直ぐ見つめ「駄目だ」と。
「すぐに仲直りして城に戻れ。・・・さっきは急だったからあんなことを言ったが、精霊の言う事にも一理ある。この辺りは半精霊狩りをする奴らも多く来る。最近じゃ悪い噂もちらほら聴いてる。いくら海底と言え、精霊の加護の無い所で過ごすのは危険だ」
「な、なな何よ! さっき精霊様に言い返した姿はちょっと格好いいって思ったのに・・・見損なったわ!」
「あー、はいはい。いいよ、見損なって」
ぽかぽかと叩かれる手を、腕で軽くあしらって、ハルスは一瞬だけ微笑を零した。
それはほんの一瞬で、直ぐに真剣な面持ちに戻すと、「心配だから」と戸惑いがちに言葉をつむぐ。
「暫く、此処に来ない」
「え?」
「本当は今日、もっと早く言おうと思ったんだ―――」
「っそんな! どうして?! 私何かしてしまったかしら・・・、だとしたらごめんなさい!」
「違う! そうじゃない・・・!」
日は沈み、辺りは暗闇と静寂に包まれる。
ぽつりぽつりと灯る星明りだけが、二人を照らしていた。
「・・・、仕事が、入ったんだ」
「嘘よ、デタラメだわ!」
「本当だ。此処からそう遠くない遺跡の調査で人員が不足しているらしい。それに加わることになったから、暫く来れない」
「嘘だわ! 嘘よ・・・。そんなこと、信じられない」
「さっきも言ったように、最近この辺りでは嫌な噂が流れてる。だから心配なんだ」
「そんなの、平気よ。・・・それよりも、アナタと会えない事の方が辛い」
「ティア、」
名を呼び、頬を包み込むように手を添え引き寄せると、軽く唇が触れた。
「次はいつ来れるのか分からない。だからちゃんと精霊と仲直りして、城に戻るんだ。わかったか?」
「・・・・・・」
勢いを失くしたティアは、頬に添えられたままの手から優しさを感じとり、渋々と首を縦に振った。
初めて会った時の様にハルスの手を覆い、そっと尋ねる。
「また、来てくれるわよね?」
「ああ」
直ぐに返される言葉に、安堵の笑みを零し、名残惜しそうにしながらもハルスの舟から距離を取る。
「絶対よ? 約束だからね?」
「わかってる」
星明り照らす海で、二つの影が手を振った。
e.
海の精霊との二度目の邂逅は、ティアを海へ帰しに来た夜明け前だった。
その時はハッキリと、ハルスの目にも精霊のその幼い容貌を認識することが出来た。
今回ばかりは己にも責任があると感じていたハルスは、精霊からの罰を覚悟していたけれど、当の精霊は姿を見せただけで一向に口を開こうとはしない。
ティアが精霊の傍へ恐る恐る近寄ると、精霊は慈悲深い笑みを携え、彼女の髪を梳いた。
まるで、「何事も無くてよかった」と言っているかのようだ。
その直後である。
人間を嫌う精霊から、人間に向けて感謝の言葉が送られた。
叱責されるだろうと思い込んでいたハルスは面を喰らい、ティアも驚きを隠せないようだった。
つらつらと語られる精霊からの言葉に、ティアはみるみる笑顔になる。
「ありがとうございます精霊様! ―――やったわ! ハルス! これからは幾らでも会えるのよ!」
「あ・・・、ああ。ありがとう、海の精霊」
「私、この海で毎日アナタを待つわ。もう誰もそれを咎める人はいないもの」
嬉しそうにハルスの横に寄り添うティアを見て、ハルスは心を痛めた。
その心の機微を感じ取った精霊は、ハルスに代わってティアを止め、寄り添い合って過ごすことの出来ない現実を聴かせた。
ティアは喚かなかった。
静かにハルスから事情を聴くと、寂しそうに笑みを浮かべ、一言。
「手紙を書くわ」
「・・・返事は必ずする」
精霊はいつの間にか姿を消し、次第に太陽の光がさしてゆく。
「またいつでもここに来てね」
「ああ。絶対また来る」




