4-2
ナタリアは夢を見ていた。
懐かしい夢だった。どこが懐かしいのかと聞かれてもはっきりとは答えられないが、なんだか以前にもこれとよく似た夢を見た気がする。
ナタリアの耳に、『声』が届く。
――子守唄だろうか? 幼い頃に、同じ歌を母がよく枕辺で歌ってくれた気がする。
しかしそれは母の声ではなかった。どこかで聞いたことのある声だが、女性のものではない。そっと寄り添うような低音で響く、大人の男の人の声だ。子供の吐息のように穏やかで、古い弦楽器のように優しい調べ――。
「あなたはだあれ?」
ナタリアは自分の声が予想外に幼いことに驚いた。まるで幼児のようにあどけない声だ。
そんなことを考えたせいか、夢はたちまち世界を変える。
場面が切り替わると、そこはよく見慣れた自分の家の庭だった。花壇に植えられた植物や庭に置かれたベンチなど僅かに違うところはあるが、そこは確かにオルブライト家の庭園だった。
一瞬家に帰って来たのかと思って辺りを見回したナタリアは、今度は自分の視線が低いことに気が付いた。驚いて自分の体を見ると、幼い頃気に入ってよく来ていた青い小花柄のワンピースを着ていた。覗き込んだ自分の掌は小さく、ぷくぷくとして柔らかそうだ。どうやら子供の姿になっているらしい。
「ナタリア」
不意に懐かしい声に名前を呼ばれて、ナタリアの体に雷が落ちたような衝撃が走る。
忘れるはずのない声。ずっと焦がれていた、もう失われてしまった声――。
「母さん……!」
声のした方を見上げると、思い出の中の姿そのままの母が、こちらに向かっておいでおいでと手招きしていた。
その後ろには、母と同じ頃に亡くなったはずの父、そしてまだ十六歳の兄――そしてもう一人、長身の誰かがいた。
その誰かがナタリアに向かって声をかけた。
「――様……」
よく聞こえない。
ナタリアは皆の方へ駆け出そうとしたが、突然暗雲がかかったように周囲の闇が濃くなって、思わず足を止めた。
深緑の草木、抜けるような青い空、母が手入れした花壇の白い花――そのすべての色が塗り替えられるように、たちまち漆黒に染まっていく。
ナタリアは思い切り腕を伸ばしたが、誰もその手を取ってはくれない。
なぜなら、彼らは既に闇に飲まれていたから……。
――ナタリアは目を覚ました。
そこは一面の闇だった。自分が目を開けたこともわからなくなるような深い闇だ。
ナタリアは恐くなって自分の手を握り締めようとした。しかし手があるはずの場所にあったのは、ただ漆黒の闇だけだった。
気がつけば、自分の首から下はすっかり闇に溶けて見えなくなっていた。リュシアンが闇を祓うと言っていたはずのロザリオも、今はもう完全に闇に沈んでいた。
(助けて――!)
叫ぼうとしたが、声が出なかった。闇はもうナタリアの口まで飲み込んでいたのだ。
(嫌――!)
固く目を閉じたのか、それとも瞼まで闇に飲まれたのか、ナタリアにはもうそれすらわからなかった。
その時、先ほど夢の中で聞いた声がした。
「――様! ……姫様! 姫様っ!」
(この声は……)
ナタリアは思考までも闇に溶けていくような気がして、ぼんやりと考えた。この声の主を、わたしは知っている。
「姫様! さあ、手を伸ばして! わたくしの手を掴んでください!」
不思議な声だった。この闇の中でも、なぜだか無性に安心できる。
ナタリアは消えてしまったはずの腕を伸ばした。闇に溶けたはずの手は、漆黒の中で何かを掴んだ。
人の手だろうか? それを、ナタリアは思いきり手繰り寄せる。
――否、ナタリアの掴んだその手が、ナタリアを力いっぱい引っ張った。
真っ黒な闇色の海から引き抜くように、ナタリアの体は黒い影から抜け出す。
ナタリアの周りにもう闇は無かった。あるのはただ光ばかり。そしてその光は、ナタリアの胸元のロザリオと、もう一つ、ナタリアの正面に立つ人物の首に掛けられたロザリオから発せられていた。
ナタリアは自分の手と繋がっているその手の主を見上げた。
懐かしい――。とても大切な存在なのに、どうしてわたしは、今まで彼のことを思い出せないでいたのだろう。
ナタリアは彼の名を呼んだ。
「ナイト……」
その瞬間、ナタリアはすべてを思い出した。十二年前何があったのか。彼がこの十二年間、何をしていたのか。
ナイトと呼ばれた青年は、長い黒髪を中空にたなびかせてナタリアの前に立っていた。きりりとした眉を優しい形に緩め、漆黒の瞳は懐かしさに煌いていた。
ナイトは穏やかな表情のままにゆったりと微笑んだ。
「――わたくしの姫様。お待ちしておりました。ずっと、ずっと――」
ナタリアはナイトを見上げた。幼い頃と何も変わっていない。とても大切な、わたしの使役獣――。
時は十二年前に遡る。
十二年前――ナタリアが行方不明になったあの時だ。
四歳になったばかりだったナタリアには、既に使役獣がいた。
その名を『ナイト』。黒山羊の使役獣だった。
当時はまだナタリアの父がオルブライト家の優秀な猛獣使いとして陛下直属の部隊を率いていた。
ある時、その父がナタリアに言った。
『こわい人が来るから、お前は隠れていなさい』
それが誰なのか幼いナタリアにはわからなかったが、父も母も兄も、とても深刻な顔をしていた。
『絶対にナタリアを渡してはいけない。ナタリアは僕たちが守るんだ――』
兄たちが話している声が聞こえて、ナタリアは恐ろしくなった。何かこわいものがわたしを捕まえに来る――。
やがて両親は、どこか暗いところにナタリアを連れて行った。
「いいかい、ナタリア。父さんと母さんが必ず迎えに来るからね。それまで絶対にここから出てはいけないよ」
父がそう言ったが、ナタリアは暗い場所が大嫌いだった。まだ夜一人でトイレにも行けないのに……。
「こわいよぅ……」
鼻をすすって泣き出してしまうナタリアの肩を、母がそっと抱きしめた。
「大丈夫よ、ナタリア。あなたにはナイトがついているわ。母さんたちが来るまで、二人でここに隠れているのよ」
幼いナタリアはまだ不服そうな様子だったが、ごしごしと涙を拭くと小さく頷いた。
「……わかった」
ナイトは屈んでナタリアと目線を合わせると、幼い主人を安心させるために人懐っこい笑顔で微笑んでみせた。
「大丈夫ですよ、姫様。わたくしがお傍でお守りいたします。恐いのなら、歌を歌ってさしあげましょう。姫様の好きな子守唄を」
ナタリアは嬉しくなった。母がいつも寝る前に歌ってくれる子守唄が、ナタリアは大好きだったのだ。
やがて完全に辺りが闇に包まれ、右も左も上も下も、何もかもわからなくなっても、その優しい歌声だけは、ずっとナタリアの傍にあった。
――この声がある限り、わたしは一人ぼっちじゃない。
ナタリアはほっと穏やかな気持ちになって、やがて眠りについた。
そうしてしばらく静かな時が過ぎた。どれくらいの時間がたったのか、にわかに周囲が騒がしくなり、幼いナタリアは目を覚ました。
いつの間にか闇は消え、ナタリアたちは知らない森の中にいた。
「父さん! 母さん!」
兄の必死の叫びが木々の間にこだまする。ナタリアがそちらを見ると、さっきまで自分がいたのと同じような闇の穴に、両親が飲み込まれるところだった。
「ナイト! 父さんと母さんを守って――!」
ナタリアの叫びにナイトはしっかりと頷いた。腕に抱いていたナタリアを降ろすと、今にも見えなくなりそうな両親の手を取り、共に深い漆黒の中に消えて行った。
――あれから十二年。
ナタリアは自分を慈しむように見下ろす青年の瞳を見上げた。
「ナイト、ずっと約束を守っていてくれたのね。十二年間も、ずっと――」
ナイトの足元を見ると、うずくまって寝息をたてている父と母の姿があった。そのあまりの懐かしさに、ナタリアは両手で口元を覆った。急速に胸に熱いものが満ちていく。
彼はこの混沌の中で、十二年間も自分の両親を守ってくれていたのだ。闇に飲み込まれないように、混沌の中に消えてしまわないように……。
ナタリアの瞳から涙が溢れた。幼かったとはいえ、わたしはなんて酷な『命令』を彼に強いてしまったのだろう。その上、十二年間も、こんなに大切なことを思い出せずにいたなんて。
「ナイト……わたし……」
どう謝ったらいいのかわからなかった。自分の大切な使役獣に過酷な運命を強いておきながら、その主人は今の今までそのことを思い出しもしなかったなんて……。あまりに申し訳なくて、まっすぐナイトの顔を見ることができなかった。ただひたすらに申し訳なく、それを表現できるだけの言葉も思いつかなかった。俯いてしまうナタリアの両の瞳からこぼれ落ちた滴が、足元の闇の中へ音もなく沈んでいった。
ナイトは長い指を伸ばすと、ナタリアの頬に触れた。涙の筋を優しく撫でるようにして、次々と溢れてくる涙を拭う。ナタリアがおそるおそる顔を上げると、ナイトはにっこりと微笑んだ。
「姫様、またお会いできて嬉しゅうございます」
ナタリアはふるふると弱々しく首を振った。
「だけどわたし、十二年間も――」
ナイトは大きな両の掌でふわりとナタリアの頬を包み込み、優しく自分の方に向けて持ち上げた。
「でも、姫様はちゃんと来てくださいました」
ふと、ナタリアは自分を見つめる熱い瞳を覗き込んだ。ナイトはこんなに美しい顔をしていたかしら。記憶の中のナイトと寸分も違わないはずなのに、久しぶりに見たナイトは子供の頃の何倍も素敵に見える。
「信じておりました。姫様は、必ず迎えに来てくださると――」
ナイトの金色の瞳は、穏やかな空に浮かぶ美しい夕日を思わせた。その温かな輝きを宿す瞳の中に、自分の惚けた顔を認めて、ナタリアは急速に頬が熱くなった。おまけに、鼓動も激しく脈を打ち始める。
一体どうしたというのだろうか。変わっていないと思っていたナイトだが、実はどこか変わっているのだろうか。
それとも、変わってしまったのは自分の方なのだろうか。
ナタリアがもう一度ナイトを見ると、彼は柔らかく微笑んだ。そうして再びナタリアの手を取り、そっと自分の方へ引き寄せた。
「姫様、わたくしと一緒に帰りましょう」
ナタリアは困ったように首を振った。
「だけど、どうやったら元の世界に帰れるのかわからないの」
ナイトはナタリアの胸元で輝いているロザリオを見た。
「そのロザリオ……リュシアン様が見つけてくださったのですね。大丈夫、そのロザリオがあれば帰れます。姫様のロザリオとわたくしの持つロザリオは、対になっているのです」
ナタリアもナイトの胸元で光を放っているロザリオを見た。対になっていると言ったが、なるほど、確かに自分の持っているものとよく似ている。
「このロザリオが闇を払うって、兄さんが言っていたわ」
「そうです。このロザリオが二つ揃ったとき、闇を払い、光のもとへと導いてくれるのです」
そう言うと、ナイトは片手を胸に添え、恭しく跪いた。
「さあ姫様、どうかこのわたくしにお命じください。姫様のご命令とあらば、わたくしはどのような望みでも叶えてみせましょう」
その懐かしい仕草に思わずナタリアの頬が緩む。そういえばナイトはいつでも、自分の願いを聞くときにはこうして跪いてみせた。まるで、物語の中に出てくる、姫を守る騎士のように――。
「元の世界へ――一緒に帰りましょう、ナイト」
ナタリアがそう言うと、ナイトは目を細めて幸せそうに微笑んだ。
「――主の仰せのままに」




