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4-1

「皆~~~遅いよ~~~」


 辺りはすっかり暗くなり、明かりを灯さなければ足元も見えない頃になって、ようやくナタリアたちはリュシアンを見つけた。


 リュシアンは地べたに這うようにしながら、やっと現れたナタリアたちを涙目で見上げていた。

 そのリュシアンの顔に、歩み寄る誰かの影がかかる。リュシアンははっとしてその影の主を見上げた。


「ナ、ナタリア……」


「兄さん……? あなたって人は、こんな所で、一体何をしていたのかしら……?」


 ゆらりと近付いてくるナタリアの表情は、リュシアンがこれまで見た中で一番恐ろしいものだった。暗がりで掲げた明かりに照らし出されて、不気味さは三割増しだ。

 リュシアンは爆発寸前の妹を刺激しないように、努めて平静を装う。


「やあ、久しぶりだね、ナタリア。元気そうで何よりだよ。……あれ? 後ろにいるのはもしかして迷子のラファエル君かい? 彼とも仲良くやっているようじゃないか――」


 リュシアンは自ら地雷を踏んだのだった。ナタリアは一瞬聖母かと見紛うばかりの穏やかな微笑を兄に落とすと、一転、鬼の形相で硬く握った拳を振り上げた。


「あんたがそれを言うなーーー!」


 しかしそこで予想外のことが起こった。いつもなら素晴らしい逃げ足の速さでナタリアの怒りの鉄拳を交わす兄だったが、不思議なことに今は逃げる気配が無かった。そのことに拳を振り下ろしながら気付いたナタリアだったが、時既に遅し。ナタリアの鉄拳は、見事な速さと勢いを乗せて、リュシアンの顔面にめり込んだ。


「やだっ! ちょっと兄さんたら、どうして避けないのよ!」


 自分が殴ったことは棚に上げて、ナタリアは兄を責めた。そのとき初めてリュシアンの様子がおかしいことに気が付いた。地面に這い蹲っている体の、腰から下が見えないのだ。


「兄さん……!」


 ナタリアは悲鳴にならない声をあげて後ずさった。おそるおそる見てみると、腰から下は消えているわけではなく、闇の中に飲み込まれているようだった。


「混沌の穴ですか……」


 冷静な声でテスが分析する。彼は珍しいものでも観察するように、顎を撫でながらリュシアンとその半身を飲み込んでいる穴をしげしげと見た。


「大きさは違いますが、先程のものとよく似ていますね……。ご自身で抜け出すことは出来ないのですか?」


 リュシアンの代わりにラビが焦った様子で答える。


「それが出来ないのよ。こちら側から引っ張っても、まるで中から何かに掴まれているようにびくともしないの」


「兄さんのことだから、どうせ珍しいものを見つけたって無用心に穴に近付いたんでしょう?」


「呆れた知識欲だな……」


 年下の少年少女から向けられる冷ややかな視線を受けて、リュシアンは心外だとばかりに首を振った。


「断じて知識欲からではないよ! そもそも、この穴は僕が開けたものだからね!」


 これにはさすがのテスも驚きの表情を隠せなかった。さらりと打ち明けられた事実に誰もが耳を疑う。


「兄さんが開けたって……この穴を?」


 リュシアンは事も無げに頷いた。


「ああ、この近くにいくつか開けたけど……うっかり片足を突っ込んでしまって、あっという間に下半身を飲み込まれてしまったよ」


 リュシアンはとぼけた様子で笑いながら頭など掻いている。


「それじゃあ、この世界と混沌を繋いだのも兄さんなの……?」


「え? ああ、うん。そうだけど?」


 リュシアンは皆が一体何にそんなに驚いているのか理解できないようだった。苦笑いを浮かべてナタリアたちを見回した。


「あのぅ……それよりも、早く助けてくれないかな? この体勢、結構辛いんだけど……寒いし」


 しかしリュシアンの訴えに耳を貸すものは誰一人いなかった。

 ナタリアはもう一度リュシアンに尋ねた。心なしか声が震えている。


「じゃあ……混沌から獣の魂を逃がして、魔獣としてこの世界に放そうとしたのも、兄さんの仕業なのね……?」


 それを聞いた途端、リュシアンは青い顔になると慌てて首を振った。


「まさか! そりゃ、確かにこの世界と混沌を行き来できるようにしようとは思ったけど、別に魔獣を放そうとしたわけじゃないよ!」


「だが実際、あの穴から魔獣が出て来ているんだぞ! それも何匹も!」


 デュークが苛立った様子で詰め寄る。リュシアンは一層慌てた声を出した。


「そんなこと言われても……。それは結果論であって、僕は断じて混沌から魔獣を逃がそうだなんて考えてないよ! 大体、そんなことをして僕に何の得があるって言うんだい?」


 リュシアンは知らないうちにものすごい容疑をかけられていたことを知り、今にも泣き出しそうだ。

 ナタリアは改めて地に伏し情けない声を出している兄を見下ろした。兄は異常なほど知識欲が強い変わり者ではあるが、決して悪人というわけではない。己の研究や実験のために周りが見えなくなって、周囲にとっては迷惑極まりない結果をもたらそうとも、決してわざとそうなるよう仕向けるような類の人間ではないはずだ。


 ナタリアはどうしようもなくやるせない気持ちになってきた。兄は迷惑をかけようと思ってかけているわけではない。兄の取る行動がいちいち他人の迷惑になるというだけなのだ。


「……それじゃあ、一体何のためにあんなことしたっていうのよ」


「それは――」


 リュシアンはそこまで言って、改めて自分に冷たい視線を落としている一同を見た。


「――その前に。とりあえず僕のこと、助けてくれるかな?」


 間の抜けた顔でへらへら笑っているリュシアンに、皆拍子抜けして腰砕けになる。この男の辞書に緊張感という言葉はないらしい。


「助けるって言ったって、一体どうすればいいんだ? 引っ張っても無駄なのだろう?」


 言いながら、デュークがリュシアンの腕を取って力任せに引いてみる。


「痛い! 痛い痛い痛い!」


 その情けない悲鳴が聞こえないかのように、さらにテスが加わって二人でリュシアンを引っ張る。


「痛いから! 本気で痛いから!」


 ひとしきり引っ張った後で、デュークとテスはやっとリュシアンの手を離した。心なしか名残惜しそうな様子で、テスは密かに舌打ちなどしている。


「やはり駄目ですね。男二人で引っ張ってもびくともしないとなると、手の施しようがありません」


 テスが冷静に判断を下すと、デュークも納得したように何度も頷いた。


「悪いが、僕たちにできることはもう無いらしい」


「――いやいや! ちょっと待ってよ! 諦めるの早すぎるでしょ! もう少し頑張ってみようよ!」


 リュシアンは慌てて手を伸ばすと、そのまま去っていこうとする二人を呼び止めた。


「今の僕は混沌に浸かって結構な時間が経っているから、下半身だけが混沌の世界になじんでしまって――要するに、別次元に存在しているようなものなんだ。だから、こっちの世界の半身をいくら引っ張っても意味がないんだよ」


「それならば、いっそ上半身も混沌へ行ってみたらどうだ? そうすれば、体が半分ずつ別々の世界にあるなんて非常識なこともなくなるだろう。何なら、僕が手伝ってやるぞ」


 (きびす)を返して近付いてくるデュークに、リュシアンは青い顔になる。


「冗談じゃないよ! 僕たち生身の人間が混沌へ行ったりしたら、体を失って魂だけの存在になってしまうんだよ!」


「もういっそ、それでもいいんじゃないかと思えてきたわ……」


 非情な言葉を口にする妹に、リュシアンはショックを隠しきれない様子だ。


「そんな……。ナタリアは、僕のことを心配してここまで探しに来てくれたんだろう? それなのに、どうしてそんな冷たいことを言うんだい?」


「別に兄さんのことを心配してここに来たわけじゃないわ。兄さんのおかげで陛下から森に出た魔獣退治を言いつけられて、帰ろうとしたところにラビが現れて兄さんを助けてくれって言うから、仕方なく来てあげたのよ」


 妹は辛辣だった。リュシアンは黙って状況を見守っていた使役獣を縋るように見上げた。


「ラビ、ナタリアは僕のしたためた感動の手紙を読んでいないのかな……?」


「ナタリア様は手紙を読んだ上で、こうおっしゃっているのだと思います」


「ナタリアーーーー!!!!」


 リュシアンは泣き声なのか悲鳴なのかよくわからない声を上げた。涙を流す兄を見て、ナタリアは盛大なため息をついた。


「わかったから! もう、兄さんたら大きな声出さないでよ。でも、引っ張っても駄目なら一体どうしたらいいの? ラビが混沌の中に帰って、中から押してもらうとか?」


 しかしラビは首を振った。


「我々獣が混沌に帰るということは、魂だけの存在に戻るということ。実体がなければ、リュシアン様に触れることも出来ません」


 リュシアンがまだ涙を浮かべている瞳でナタリアを見上げた。


「ナタリア、お前は兄さんの手紙を読んだと言ったね? ということは、同封されていたロザリオも見つけたということかい?」


「ロザリオなら……」


 ナタリアはごそごそと胸元を探ると、ロザリオを引っ張り出した。ロザリオを目にした途端にリュシアンの顔に光が差す。


「でかしたぞ、ナタリア! さすがは僕の妹だ!」


 興奮した様子でリュシアンはナタリアに言った。


「そのロザリオは、闇を祓う呪いがかけられているんだ。それがあれば僕の体を混沌から引き抜くことが出来る!」


 兄の口から明かされた禍々しい真実に、ぎょっとしてロザリオを取り落としそうになる。


「の、呪い? だってこれ、母さんの形見だって……」 


「そうでも言わないと、シャイなお前はロザリオを肌身離さず身に着けてくれないと思ったからさ。手紙にも書いておいたじゃないか。兄さんの念を込めておいたってね。口では冷たいことを言っても、やはり本心では僕のことを思っていてくれたんだね!」


 ナタリアの兄に対する誠意は風前の灯だった。母の形見だというから大切に持ち歩いていたというのに、実は呪いの首飾りだったなど、趣味の悪い嘘にも程があるというものだ。

もういっそ兄をここに置き去りにしていきたいという欲求をかろうじて押さえ込むと、ナタリアはリュシアンの眼前にロザリオを落とした。


「それなら自分の首にかけて、自分で引っ張り出したらいいでしょう? 助かる方法が見つかってよかったわね――じゃあ頑張って」


 そのまま立ち去ろうとする一行を、リュシアンは慌てて引き止めた。なんだか今日の皆は一段と自分に冷たい気がするのは気のせいだろうか。


「僕じゃ駄目なんだ! このロザリオは、人間の女性が身に着けたときにしかその力を発揮しないんだよ!」


 それでもまだ胡散臭そうな顔をしているナタリアたちに、ついにラビが頭を下げた。


「ナタリア様、それから他の皆様方も。今回の件で我が主が皆様に大変なご迷惑をおかけしてしまったこと、わたしからも謝罪致します。本当に申し訳ございませんでした。皆様のお怒りもごもっともですが、どうか我が主をお助けください。リュシアン様を救えるのは、ナタリア様より他にいらっしゃらないのです……!」


 深々と頭を下げるラビを見て、ナタリアはだんだん申し訳ない気持ちになってきた。ラビこそ、こんな手のかかる兄が主人だというせいで、誰よりも苦労しているというのに。この上そんな兄のために頭まで下げてくれるのだ。

 ナタリアは明日の朝になって全身を混沌に飲み込まれている兄を想像してみた。正直胸はスッキリはするが……良心的には、あまり気持ちの良い光景ではない。


「――仕方ないわね」


 ナタリアはリュシアンの前に落としたロザリオを手に取ると、再び自分の首にかけた。


「ナタリア!」


「ナタリア様!」


 きらきらと輝く瞳で自分を見上げる主従コンビに、ナタリアは肩をすくめた。


「言っておくけど、兄さんのためじゃないんだからね。こんな兄さんを主に持ったラビに同情したから助けるんだから」


 何度も頭を下げるラビの横を通り抜け、ナタリアはリュシアンの傍らに膝をついた。


「それで、一体どうすればいいの?」


「簡単だよ! 混沌の中に手を入れて、僕の足を掴んで引っ張り出してくれればいいんだ」


 嬉々としてナタリアを見上げるリュシアンだが、デュークはまだ半信半疑の顔だ。


「本当に大丈夫なんだろうな? 今度はナタリアの上半身が混沌に持っていかれるなどということにはならないだろうな?」


 心配そうなデュークとは対照的に、底抜けて明るい様子でリュシアンは親指を立てた。


「大丈夫さっ! 僕が十二年も探しに探してやっと見つけた呪いのロザリオなんだ。効力はお墨付きさっ!」


「お墨付きって、一体誰の……?」


 その根拠の無い自信が、この男の場合一番不安なのだとデュークは思った。ラファエルも心配そうにナタリアを覗き込む。


「おい、本当に大丈夫なのかよ?」


「ありがとう、ラファエル。多分大丈夫よ。兄さん、こういう変な知識に関してだけは意外と確かなの」


 ナタリアは苦笑すると、改めて兄の下半身を飲み込んでいる混沌の穴を見た。

 リュシアンの腰の辺りでぽっかりと口を開けている闇は、つめれば大人がもう一人くらいは入れそうな大きさだ。混沌だというその闇の中には、兄の下半身らしきものは見当たらなかった。


 ナタリアは左手で首にかけたロザリオをぎゅっと握り締めると、ゆっくりと混沌に右腕を伸ばした。混沌に差し入れたはずの右腕は、闇に溶けるように見えなくなる。


「腕が……!」


 デュークが慌てた声を出したが、ナタリアは大丈夫と首を振った。


「見えないけれど、ちゃんと感覚はあるわ」


 そのままナタリアは闇の中の右手を動かして兄の脚を捜した。すぐにそれらしきものが指に触れる。ナタリアがリュシアンを見ると、彼は嬉しそうに何度も頷いた。


「それだよ! 僕の足だ!」


 そのままナタリアは左手も混沌へ入れると、両手でリュシアンの腰を掴んで思いきり引っ張った。すぐにデュークやラファエルもナタリアに手を貸す。兄の言ったロザリオの力のおかげなのか、意外にもあっさりと下半身を引っ張り出すことができた。


「ありがとうナタリア! やっぱりお前は、僕の自慢の妹だよ……!」


 リュシアンは開放された両足ですっくと立ち上がると、勢いよくナタリアに抱きついた。


「ちょ、兄さん、危ないってば――……」


 そのとき、リュシアンの体がぐらりと傾いた。長時間混沌に放置されていた足には、まだ完全には感覚が戻っていなかったのだ。


「え」


 リュシアンの小さな声が漏れた直後、ナタリアとリュシアンはたった今抜け出したばかりの混沌に向かってゆっくりと倒れ始めた。


「リュシアン様――!」


 一番近くにいたラビが慌ててリュシアンの腕を掴む。かろうじてリュシアンはその手に掴まり踏みとどまったが、ナタリアを抱いていたはずの両腕は、しっかり空を切っていた。


「ナタリア――!」


「ナタリア!!」


 デュークが駆け寄るが間に合わない。ラファエルが必死で伸ばした腕も、ナタリアを掴むことはできなかった。空を切る指の先で、ナタリアの驚いた顔が闇に飲み込まれていった。



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