3-5
ラビは黒豹の使役獣だ。
正確な名前は、ラビリアント・リーン・ベルルナンド・ヌークワープ・シル・ルビアンヌ・ル・ルーというが、正しくその名を呼ぶ者はほぼ一人しかいない。
そしてこの長ったらしく珍妙な名前をつけた主こそが、ナタリアの兄であり、今回行方不明になってあちこちの迷惑の根源と化したリュシアン・オルブライトその人であった。
ラビはひどく慌てた様子で、説明もそこそこにナタリアたちを森の最深部へと急かした。どうやら、そこでリュシアンの身に大変なことが起こっているらしい。
「先程の大きな亀を見て、ナタリア様たちが近くにいるとは思ったのですが……。思っていたよりもすぐにお会いできて良かった。リュシアン様は、一刻を争う事態なのです」
走りながらラビが言う。その言葉に、ナタリアはつい先ほどやっと目を覚ましたばかりのラファエルを見ながら尋ねた。
「亀を見てわたしが近くにいるって分かったって、どういうこと? 確かに、あの亀はこのラファエルだけど……」
「そこのご老兄に聞いていませんか? 彼にナタリア様の使役獣のフリをするよう依頼したのはリュシアン様です」
「……フリ?」
ナタリアの足が、思わず止まりそうになる。ラビはナタリアの様子に気付かずに続けた。
「はい。リュシアン様がこの森で偶然出会ったのが彼です。どうやら記憶を失っているらしく、自分は獣だが誰が主人なのかわからないと言うので、それならばとリュシアン様がナタリア様の使役獣のフリをするよう依頼したのです。そうすれば本当の使役獣を召喚するまでの間、『素質を持たない者』だと疑われることも無いだろうと。彼は快く引き受けてくれました。ナタリア様にもその旨説明するよう言っておいたのですが……」
ナタリアの足がぴたりと止まる。隣で話を聞いていたデュークも、なんと言葉をかけてよいかわからず、おそるおそるナタリアの顔を覗き込む。
「ナ、ナタリア……大丈夫か?」
ナタリアは俯いたまま動かない。その様子を見て、ラファエルは心配そうに首を傾げた。
「おい、ナタリア……?」
ナタリアは動かない。ナタリアの返事がないことに、ラファエルも慌てて彼女の顔を覗き込んだ。どうやらラファエルにはラビたちとの会話が聞こえていなかったらしい。
「どうした? どこか具合でも悪いのか? まさか、さっきぶつけたときにどこかよくないところでも打ったとか!?」
どさくさにまぎれてナタリアの体をぺたぺたと触りまくるが、ナタリアは微動だにしない。代わりに、デュークが無理やりラファエルを引き剥がす。
次の瞬間、ナタリアの怒声がラファエルの耳を劈いた。
「その言葉、そっくりそのままあなたに返すわよラファエル! あなたこそよくないところでも打ったんじゃないの? あなたとどこかで会っていた気がしたなんて、一瞬でも思ったわたしが愚かだったわ! わたしの使役獣だなんて、よくも、よくもそんな嘘を……!」
ナタリアは言い終わらないうちにがっくりと肩を落とす。ラファエルばかりを攻めるのは間違いだ。初めから彼の言葉に信憑性が無いことを承知していながら――どこかで彼は自分の使役獣なんかではないと知りながら、その上で彼の主になると言い出したのは他でもない自分自身なのだ。
ラファエルはナタリアから放出される陰鬱な空気に思わずたじろいで固まってしまった。珍しくナタリアから目を逸らすと、助けを求めるようにテスを見た。
「ナ、ナタリアは、なんでこんなに怒ってるんだ……?」
そのとぼけた様子が、再びナタリアの地雷を踏んだようだった。ナタリアは眉を吊り上げて引き気味のラファエルに詰め寄る。
「なんでじゃないわよ! 兄さんに頼まれてわたしの使役獣のフリをしていただけなのに、どうやったら本当にわたしが主人だなんて思い込めるのよ! 最初からそう説明してくれれば、わたしだって変な期待しないで済んだのに!」
ナタリアの言葉を聞いて、ラビが呆れた目でラファエルを見た。
「あなた……ナタリア様にちゃんと説明しなかったのですか?」
「ああ? 説明ならちゃんとしただろーが! リュシアンの由縁だって、俺は最初に言ったはずだぜ!?」
ナタリアはさらに恐ろしい形相でラファエルに詰め寄る。
「それのどこがちゃんとした説明なのよ! 肝心なことを言ってないじゃないの!」
ナタリアのあまりの剣幕に、さすがのラファエルも旗色が悪いと感じたのか、困った顔で後ずさりながら曖昧に微笑んで見せた。
「リュシアンに言われてお前のところへ行ったことも、話したと思ったんだけどな……?」
埒の明かない押し問答に、とうとうデュークが助け舟を出した。
「ま、まあまあ。ナタリアも少し落ち着け。高齢だというからな。単に忘れてしまっていただけかも知れないぞ。忘れた上で、自分が本当にナタリアの使役獣だと思い込んでいたとか」
しかしデュークの言葉を聞いて、今度はラファエルが苛立った声をあげた。
「俺は本当にナタリアの使役獣だっつってんだろーが!」
デュークは内心頭を抱えたくなった。もういっそのこと、故意にナタリアの使役獣を騙っていたという方がまだ話が簡単だ。
「使役獣が、自分の主人を違えることなどありえない……」
ふと、テスが何かに思い至ったかのように呟いた。
「この者は、本当にナタリア様の使役獣なのかもしれませんよ」
「だけど、ラビが言うには、兄さんとラファエルは偶然森で出会っただけだって――」
「失礼。言い方を変えましょう。正確には、ラファエル殿はナタリア様を主人として選んだのかもしれません」
その言葉に、ナタリアは驚きの声をあげた。
「それ、ラファエルも言っていたけれど。使役獣が主を選ぶなんて聞いたことがないわ」
しかしテスは同意を求めるようにリュシアンの使役獣ラビを見た。
「ラビ、お前も気付かないか? 初めからからどこかおかしいと思っていたんだ。彼は確かに我々と同じ混沌に生じた獣だが、何かが我々とは決定的に違う。その違和感が一体何なのか、つい先程までわからなかったのだが……今、やっとそれがわかった」
テスはそこで言葉を切ると真剣な表情で、ラファエルに向き直った。
「――あなたは、主人を持たない獣です」
「主人を持たない獣って……」
ナタリアは言葉を飲み込んだ。先ほどデュークにしてもらった説明の通りだとするならば、そういう獣のことを指す言葉は一つしか思い当たらない。
ナタリアが思い浮かべた言葉を肯定するようにテスは頷いた。
「そうです。彼はおそらく魔獣です」
テスの言葉に、皆一斉にラファエルを見た。大きな瞳をさらに大きく見開いて、ラファエルはその場にいた誰よりも困惑した表情で固まっていた。
「俺が……魔獣……?」
ラファエルは全力でテスの言葉を否定しようとしたが、出来なかった。否定するだけの根拠になる記憶が、自分の頭の中のどこにもないことに気がついたのだ。
ラファエルの記憶はこの森を彷徨っていたところからしかはっきりしていない。自分が人間ではなく、混沌から生じた獣だということはわかったが、その主人が誰なのか、なぜこの森を彷徨っていたのか、どうしても思い出すことができなかった。
そうしているうちに、ラファエルはリュシアンに出会った。彼は自分の話を聞いてくれ、それならば自分の妹の元へ行ってくれないかと話を持ちかけてきたのだ。
ラファエルはナタリアの名前を聞いたとき、心の中にぽっかりと開いていた穴が塞がったような感覚に襲われた。
なぜかはわからないが、『ナタリア』という名前には、なんともいえない懐かしさを感じたのだ。
実際、あの謁見の間でナタリアを見た途端、ラファエルは彼女こそが自分が捜し求めていた存在だと理解した。彼女には、周囲の闇を払うような明るいオーラがあった。その生き生きとした明るさは無性に懐かしく、ラファエルはごく自然に――息をするように、ナタリアが自分の主だと信じたのだ。
ナタリアはさっきまでラファエルに対して抱いていた怒りもすっかり忘れ、突きつけられた事実に言葉を失っているラファエルを庇うように弁明した。
「だけど、魔獣が人の姿を取れるなんて聞いたことがないわ……。それに、ラファエルはわたしたちを守ろうとしてくれた。確かにわたしの命令を聞いてとかではないけれど、でも、彼は彼の意思で、わたしたちのことを助けてくれたわ。そんなこと、凶暴な魔獣がするとは思えない……」
そう言いながら、ナタリアには自信がなかった。自分が魔獣のことも使役獣のこともちゃんと理解しているわけではないとついさっき思い知ったばかりなのだ。自分の持っている知識と、その紡ぐ言葉が、どれほどの説得力を持っているのかまったく自信がなかった。
だけど――。
ナタリアは改めてラファエルを見た。確かに口は悪いけれど、一生懸命に仲間を守ろうとしてくれたその姿は、決して邪悪なものなんかではない。自分を心配してくれる彼の優しい心が、魔獣と同じものだなんて言わせない。
「わたしには、ラファエルが魔獣だなんて思えない。もしも主がいないことでそう呼ばれなきゃいけないのなら、それこそ彼は魔獣なんかじゃないわ。だってわたしはもう、ラファエルの主人だもの」
ナタリアは改めてラファエルを見据えた。ラファエルは、目を丸くしてナタリアのまっすぐな瞳を見下ろしている。
「ラファエル、改めてお願いするわ。あなたさえ良ければ、わたしの使役獣になってくれる? わたしには使役獣がいないし、あなたにも主人がいない。わたしたち、二人一緒なら、ちょうどよく『猛獣使いと使役獣』になれると思うの」
そう言って、ナタリアはにっこりと微笑んだ。それからはたと思い出して、呆然としているラファエルの白い手を恭しく取った。
「今度はわたしがこうする番ね。……わたし、ナタリア・オルブライトは、あなたの主として、この存在のすべて、全身全霊をかけてあなたを使役すると誓うわ」
ラファエルは自分の手を取るナタリアを見た。華奢な体にくるくるとよく変わる愛らしい表情。その小さな体のどこに秘めているのか、彼女の中には確かに強い正義感と温かな思いやりの心があった。
ラファエルはナタリアの手を両手で覆うように包み込んだ。そのまま腰を屈め、その端麗な顔をぐっとナタリアの顔に近づけた。
「ナタリア……お前の愛の告白、確かにこの胸に届いたぜ」
「……は?」
ラファエルの勝手な解釈に、ナタリアとデュークは思わず間抜けな声を漏らす。だがラファエルはそんなことに構う男ではない。頬を高潮させ、昂ぶった感情を抑えきれない様子で高らかに声を上げた。
「さすがは俺の主だ! 俺の主人は、ナタリア、お前以外考えられない……!」
ラファエルはそのまま自分の胸にナタリアの顔を埋めさせると、強くその体を抱きしめた。ラファエルの細い腕からは想像できないような力強さに、ナタリアは思わず赤面する。
「ラファエル、ちょ、ちょっと! 離してってば!」
しかしラファエルはナタリアを解放するどころか、そのまま両腕でナタリアの頬を包み込むと、寸分の迷いも躊躇いも無くまっすぐ唇を近づけてきた。
「――!!!!」
ナタリアは必死に抵抗したが、ラファエルはまったく動じない。あわやという時に、すかさず横から伸びてきたデュークの腕がナタリアを救出した。
ナタリアは恥ずかしさに顔を真っ赤に染めながら、舌打ちしているラファエルを呆れ顔で見た。
「ラファエル……あなたって、本当にお年寄りなの……?」
ラファエルの代わりに平坦な口調でテスが答えた。
「まごうことなきお年寄りです」
「確かにお前らよりは年くってるけどよ……。あんまり年寄り扱いされるのは好きじゃねーな。亀は元々長命だ。七十二歳なんて亀の中ではまだまだ若い方なんだぜ」
「な、七十二歳だと!? それのどこが若いというんだ!!」
今にも噛み付きそうな勢いで突っ込むデュークに、テスが爽やかに声をかける。
「デューク様、やきもちは見苦しいですよ」
「断じて違うぞ!」
賑やかな一同を見回しながら、ラビは大きなため息をついた。自分の主人もかなり賑やかな部類だとは思っていたけれど、この人たちも同類であることは否めないようだ。
ラビは密かにナタリアと並んで嬉しそうに微笑んでいる金髪の青年を見た。
それにしても、彼は一体何者なのだろう? 彼がナタリア様の使役獣などということは絶対に有り得ないというのに。
(なぜならナタリア様の使役獣は――)
その時、ラビは何かを思い出したようにはっと我に返った。見る見るうちに、彼女の褐色の肌が青ざめる。
「――忘れていました! 早くリュシアン様を助けに行かなくては!」
その言葉で、ナタリアたちもやっと自分たちがリュシアンを助けに向かう途中だったということを思い出したのだった。




