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周囲を調べに行っていたテスは、不可解な情報を持って戻って来た。
森の中に真っ黒な混沌の闇がぽっかりと口を開けているというのだ。
人型に姿を戻したテスに案内されて一行がその場所へ行ってみると、テスの話していた通り何もない空間に不自然に開いた黒い穴が浮かんでいた。
「何、これ……?」
ナタリアが誰ともなしに尋ねてみたが、誰も明確な答えを返せるものはいなかった。これまで何度も魔獣と戦ってきたバートたちですら、こんなものは見たことがないと言った。
すっぱりと刃物で切られたように漆黒の口を開けた空間。人がやっと通り抜けられるほどの大きさの穴からのぞく不気味な闇が混沌なのだということをテスが教えてくれた。
「混沌って、あの獣が生まれて存在しているっていう、あの混沌……?」
ナタリアが尋ねると、テスは大きく頷いた。
「はい。間違いありません」
だが、混沌はナタリアたちが今いるこの世界とは別のどこかにある場所だ。それがこんな形でこの世界で目に見えるものとして現れるなど、有り得ない話だった。混沌という世界が存在していることは知っていても、それはこの世界とはまったく異なる次元にあり、その二つの世界は決して相容れない。適当にその辺の空間を切ったからといって、簡単にそこに現れるような場所ではないのだ。
それが今は誰の目にも明らかな形で、ぽっかりと中空に口を開けていた。
「この穴の向こうが混沌だというなら、こちらの世界と繋がっているということか?」
「そんなはずは有り得ません。二つの世界が繋がっているなど――……」
デュークの問いにテスが答えかけた時だった。突然目の前の混沌の穴が歪んだかと思うと、中から黒い物体が飛び出してきた。最初は濃い影の塊のようだったそれは、見る見るうちに獣の姿に形を変えていく。
「魔獣……!」
猛獣使いと使役獣たちは即座に身構えた。たった今混沌から飛び出してきたばかりの獣は、先ほど退治した魔獣より二まわりは大きい。地を這うような体躯からは四本の短い足と長い尻尾が伸び、岩のように硬そうなごつごつとした皮膚に覆われていた。大きな口は頭の端から端まで避け、鋭い短剣のような牙がのぞいていた。
「テス!」
デュークが短く命じると、主の意志を悟っていたように先んじて白い獣の姿に身を変えていたテスが、素晴らしい速さで魔獣に向かって飛び出す。
テスは自分の体よりも大きい相手に臆することなく、鋭い爪をたてた前足で魔獣に押しかかる。二匹の獣は低い唸り声を上げながら、何度も何度も地面を転がり、互いの首元めがけて牙を向ける。デュークは光を放つ魔法陣の向こうからテスに意志の力を注ぎ、その心の安定を支えていた。
アランたちもテスの後を追って魔獣に向かう。しかし、テスと魔獣の格闘があまりに激しく、一歩引いたところで様子を伺っていることしか出来ないでいた。
ナタリアは自分も何か出来ないかと思わずラファエルを振り返った。ラファエルが自分の使役獣だという確信は持てなかった。だが、テスによれば彼が誰かの使役獣なのは確かであり、その彼自身が主は自分だと言っているのだ。デュークやバートたちのようには出来なくても、自分とラファエルなりの戦い方があるかもしれない。
そんなナタリアの様子を横目で見て、額に汗を浮かべたデュークが鋭く釘を刺した。
「ナタリア! お前は無茶するんじゃないぞ!」
「だけど……!」
ナタリアがさらに言葉を続けようとしたときだった。ラファエルのすぐ横の茂みが揺れたかと思うと、突然黒い影を帯びた魔獣が飛び出してきた。
「危ない!」
叫ぶと同時にナタリアは咄嗟にラファエルの前に進み出た。
「ナタリア――!」
デュークとラファエルが同時に叫ぶ。ナタリアは悲鳴を上げる間もなく魔獣に弾き飛ばされ、背後にあった太い木の幹に思いきり体を打ちつけた。
魔法陣を解いたデュークとラファエルがナタリアに駆け寄る。ナタリアは背中を強く打っていたが、他に目立った外傷は無いようだった。
蒼白な顔色のラファエルは慌てた様子で地面に倒れるナタリアを抱き起こした。
「この馬鹿! なんで俺のことを庇ったりしたんだよ! 俺はお前の使役獣で、お前は俺の主だろうが! お前はただ、大人しく俺に守られていりゃ良いんだよ!!」
ラファエルの心配そうな瞳がナタリアを覗き込む。ナタリアは彼に大丈夫だということを伝えたくて、痛みに遠退きそうになる意識を何とか繋ぎ止めながら、懸命に笑顔を作って見せた。
「使役獣とか主人とか、わたしにはまだよくわからないもの。守れるところにいる誰かを守るのは、当然のことだわ……」
ナタリアの言葉に、今度はデュークの怒声が重なる。
「馬鹿者! 無茶するなと言っただろうが! お前は安全な所に隠れていろ! もしもお前に何かあったら、僕は、僕は――」
ナタリアは小さく首を振った。
「皆がわたしのために魔獣退治に協力してくれているのに、自分だけただ守られているなんて嫌よ。わたしのことを少しでも猛獣使いと認めてくれるのなら、そんな寂しいことは言わないで」
「ナタリア……」
そう言われては、デュークにはそれ以上何も言えなかった。ナタリアはデュークの優しさに感謝しながら微笑んだ。
「わたしなら、大丈夫だから……」
掠れた声でそう言ったナタリアの視界に、デュークの後ろで魔獣と戦い続けているテスの姿が映った。気のせいか、さっきよりも動きが荒々しい。唸り声も激しくなり始めている。
「デューク、テスの様子が……!」
ナタリアの声に、我に返ったデュークは慌ててテスを振り返った。
「あの馬鹿者……!」
苦虫を噛み潰したような顔で、デュークは再び魔法陣を浮かべて構える。
「落ち着け、テス! 気高いホワイトタイガーともあろう者が、そんな貧相な獣相手にむきになるなどみっともないぞ……っ!」
デュークの声が聞こえたのか、主の意志の力が届いたのか、テスの動きは次第に落ち着きを取り戻す。
その様子に安堵している間もなく、ナタリアはもう一匹の魔獣の方へと向き直った。バートたちが応戦していたが、大きな体とそのすばやい動きに手こずっているようだった。
「――ラファエル、わたしに力を貸して」
意を決したナタリアがそう声をかけてラファエルを見た。しかしそこにいたのは、ナタリアがよく知る不真面目な表情の青年ではなかった。形のよい眉は険しく寄せられ、思慮深い碧を湛えていた瞳には憎しみの波が揺らいでいる。華奢な肩は何かを堪えているかのように小さく震え、繊細そうな指を固めた拳は固く握り締められていた。
「……さねえ……」
「え……?」
ラファエルの瞳が、ほんの一瞬赤く光ったように見えた。
「ナタリアを傷付ける奴は、俺が許さねえ……っ!!」
叫ぶと同時に、ラファエルの体が大きく歪む。ラファエルの体は見る間に変化していき、それと同時にどんどん大きく膨らんでいく。
「ちょ、ちょっとラファエル……!?」
ラファエルの変容を追っていたナタリアの視線はついに空を仰ぐ。気が付けば、森の木々の天辺のさらに上に、巨大亀と化したラファエルの頭があった。
「ラファエル――!?」
驚いて頭上を見上げているのはナタリアだけではなかった。突然の巨大生物の登場に、猛獣使いたちはもちろんのこと、戦っていた獣たちさえ動きを止めている。
そんな一同の驚きはお構い無しに、ラファエルは耳を劈くような咆哮を上げた。それから大きな屋敷ほどもある巨体を器用に動かして向きを変えると、その岩の塊のように太く硬い前足でナタリアに体当たりした魔獣を弾き飛ばした。
ほんの少し足を動かしただけに見えたのに、空を切るようなブンッという低い音がして、魔獣は木々をなぎ倒しながら飛んで行った。あっという間に森の奥へと見えなくなる。
誰もがその光景に戦意を喪失している中で、一番最初に我に返ったのは意外にもテスが相手をしていた魔獣だった。
魔獣は大きな口を開いてラファエルの太い足に噛み付いたが、ラファエルには痛くも痒くもなさそうだった。煩わしそうに足を上げて魔獣を振り払うと、その勢いで魔獣は先ほどの魔獣と同様に木々の向こうへ吹っ飛んでいった。
そのときになってようやく我に返ったバートが、急いでアランに命じる。
「アラン、魔獣の様子を見て来い」
おそらくはもう動けないだろうが……誰もがそう確信していた。
アランは返事をするように一声鳴くと、魔獣が飛んでいった方向へ駆けて行った。
呼び戻したテスの鼻の上を優しく掻きながら、デュークが驚きを通り越した顔でラファエルを仰ぎ見た。
「なんて常識はずれな奴なんだ……」
テスも同意するようにぐるると喉を鳴らす。
呆然と亀を見上げていたナタリアの口から、信じられない言葉が漏れた。
「わたし、知ってる……」
「は?」
意味がわからずデュークが聞き返すと、ナタリアは高揚した様子でもう一度繰り返した。
「わたし、この子のこと知ってるわ……」
「この子って――この馬鹿みたいにでかい亀のことか?」
ナタリアは懐かしい友人に会ったように、潤んだ瞳をラファエルに向けた。
「思い出せないけれど――でも確かに『知って』いるのよ……。ラファエルの言ってたことは、やっぱり本当だったんだわ。わたしたちは、きっとどこかで既に会っていたのよ……!」




