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その空間はミルクを薄めたような淡い白に包まれていた。
そこでは詳細を覆い隠すように白が纏い付き、すべての印象が曖昧になる。
ナタリアはこれが夢だと知っていた。
夢を見ていることを悟っている夢。その中で、誰かが自分を呼んでいる。
「――め――さま。……め様」
それはどこかで聞いたことのある声だった。懐かしくて、ほっとする。子供の吐息のように穏やかで、古い弦楽器のように優しい調べ。その声の主はとても大切な存在だったはずなのに、ナタリアにはどうしてもそれが誰なのか思い出せなかった。
「――姫様」
名前を呼んでいるわけではないのに、その声が自分を求めているのだとナタリアは知っていた。
ナタリアは声の主を見上げた。顔は見えない。靄に包まれたようにぼんやりとした印象しかないが、夢の中のナタリアはそのことを特に気に留めなかった。
「……あなたは、誰?」
たずねると、声の主は微笑んだ――ような気がした。
「わたくしの大切な姫様。わたくしはあなたの騎士です」
「ナイト……?」
夢の中のナタリアは「ふうん……」と短く納得すると、もう一度たずねた。
「こんな所で一体何をしているの?」
声の主は、一拍の間を置いてから静かに答えた。
「わたくしは、あなたとの約束を守っているのでございます」
「ふーん……」
夢の中のナタリアは、他人事のようにそう言った。
――『外』の気配がする。
そろそろ『わたし』が目を覚ます――。
「――姫様」
声の主がもう一度ナタリアを呼んだ。
「姫様。わたくしは、いつまでもあなたを待っております。ずっと、ずっと――……」
その声が白い世界に完全に溶けるとともに、ナタリアは温かいベッドの中で目を覚ました。
まだ眠気の残る仕草で目をこすりながら、辺りを見回す。見慣れた自分の部屋の窓からは水色のカーテン越しに薄明かりが差し込み、夜が明けたことを告げていた。
なんだかとても懐かしい夢を見ていたような気がするが、それがどんな夢だったのかナタリアはまったく覚えていなかった。
なぜか胸に残る一抹の寂しさが、ただ不思議だった。
*****
『――最愛の妹、ナタリアへ。
突然だが、僕は人生に疲れてしまった。
陛下にこき使われ、国中を飛び回り、魔獣を退治して回るだけの毎日……。
こんな生活の一体どこに、僕の心の平安があるというのだろうか?
――そんなわけで、僕はしばらく自分探しの旅に出たいと思う。
心優しいお前のことだから、きっとさぞ僕のことを心配していることだろう。
お前が寂しがるといけないので、僕の代わりに同封してあるロザリオを置いていく。
とても古いものだが、これは生前に母さんが身につけていたもので、僕が家督を継いだときに一緒に受け継いだものだ。
見た目はあまり洒落てはいないが、とても由緒ある品なのだよ。
それを僕だと思って、肌身離さず身につけているといい。お前のことを守ってくれるように、僕がしっかりと念を込めておいたからね。
――ああ、愛しいナタリア。
名残惜しいが、そろそろ行かなくては。
どれほど僕が心配であっても、決して僕を追ってきてはいけないよ。
どうか体に気をつけて。僕がいない間に、変な男になど捕まることのないよう。
兄はただ、そればかりが心配でならない。
――最後に。
僕はいつでも、お前のことを信じているからね。
お前の愛しい兄、リュシアン・オルブライト』
――ぐしゃり。
ナタリアはたった今読んだ手紙を手の中で強く握り締めた。
――ぐしゃぐしゃぐしゃ。
ナタリアは、さらに畳み掛けるように――これ以上ないというほど強く執拗に手紙を握り締めて――否、丸めてから、キッチンの隅にあるくず入れへ放り投げた。
金のふち飾りが張られた上等な紙にしたためられた手紙は、小さな白い塊となって美しい弧を描き、銀色のくず入れの中に吸い込まれていく。
ナタリアがその手紙に気がついたのは、いつものように朝食の支度をしようとキッチンへ入ってすぐのことだった。
小さいがよく片付けられた台所の壁には、亡くなった母の趣味で張られたタイルがつやつやと輝き、窓から差し込む朝日を反射してさらにまぶしい光を放っている銀の調理台の上には、塵一つ落ちていなかった。
――いつもなら。
しかし今朝は違った。そのよく磨かれた銀の調理台のちょうど真ん中に、小さな白い封筒が置かれていたのだ。封筒は調理台と同様にまぶしい朝の日差しを受けて、目を刺すように鋭く輝いていた。
昨夜から、兄が何やら騒がしくしているとは思っていた。だが兄の落ち着きがないのはいつものことだし、意味のわからない行動もまた日常茶飯事だったので、ナタリアは特に気にも留めていなかった。きっといつものように古い魔導書を読み漁って興奮しているだけなのだろうと思っていたのだ。
ナタリアはもう何度目か知れない大きなため息をつくと、たった今手紙が消えて行ったくず入れをぼんやりと眺めた。
ナタリアの父と母が亡くなって、もう十二年が経つ。思えば、あの兄が十二年間も大人しく国王に仕えていたことの方が不思議だったかもしれない。
ナタリアとその兄リュシアンの生まれたオルブライト家は、代々国王に仕える猛獣使いの由緒正しい家柄だった。西のボウヤー家、東のオルブライト家と称され、このリンクベル国王陛下直属の猛獣使い部隊を率いる長を歴任してきた家としてその名を知らない者はいないほどの名家なのだ。
しかし十二年前、ナタリアがまだ四歳だったときに両親が急逝し、当時十六歳で士官学校を卒業したばかりだったリュシアンが父の跡を継いで国王に仕えることになった。
妹のナタリアがどう贔屓目に見ても、兄が宮廷に仕える類の人間でないことは明らかだった。兄のリュシアンときたら、猛獣使いとしての素質こそ名家の名に恥じぬものであったが、それ以外は幼児並みの自由人なのだ。寝食を忘れるほど一つのことに没頭したかと思いきや、突然一切の関心を失い、まったく関連がない他のことに夢中になるということなどしょっちゅうであったし、兄が興味を抱くものといったら、古い魔導書や失われた魔法や呪術、語り継がれることもなくなったようなマイナーな伝承など、ナタリアにはまったく面白さが理解できないものばかりだった。
自分の関心の赴くままにあちらへこちらへ飛び回り、豊富な知識を活かして何か役に立つことでも言うかと思えば、意味があるのかないのかわからない謎めいたことしか口にせず、飄々としてつかみどころがない。いつも自由に山を海をと吹いて回る風のような人だと、ナタリアは常々思っていたのだった。
その兄が十二年間も、文句一つ言わずに国王に仕えていたことは、むしろ奇跡だったのかもしれない。
あんな兄でも、彼なりに妹のことを思って長い間我慢してくれていたのだろうか……。
ナタリアはもう一度、今度は深く長いため息をついた。
「わたしが、獣を召喚できないから……」
そう考えると、感情のままに兄を責めることは出来なかった。
兄を縛っていた鎖は、家でも国王でもなく、役に立たない妹の自分だったのかもしれない……。
猛獣使いといっても、森や草原に生息している動物を連れてきて使役するわけではない。混沌という、この世ではない場所からその魂を呼び出し、具現化させた獣を使役するのが猛獣使いだった。同じ混沌の隙間から溢れ出てきた悪しき魔獣たちを退治して再び混沌へ還すことが、この世界で猛獣使いと呼ばれている人々の生業だった。
猛獣使いという職業は、修行や訓練を積めばなれるというものではない。生まれ持った素質がなければ、混沌から獣を召喚し、自分の魂の下に従わせることは出来ない。
そしてその素質を持つ者であれば、本来は遅くとも十歳を過ぎた頃には誰に教わるでもなく自分の魂に呼応する獣を召喚できるものだった。
ナタリアはしかし、この国では名高い猛獣使いの名家に生まれながら、十六歳を迎えた今になっても自分の使役獣を喚び出すことが出来ずにいた。猛獣使いの家に生まれ、その家系の血が体に流れていても、必ずしも全員が猛獣使いとしての素質を持っているわけではない。ごく珍しいことではあったが、まれにナタリアのように使役獣を召喚できない――すなわち、『素質を持たない者』もいた。
ナタリアはリュシアンが残していったロザリオに目をやった。
すっかり汚れているそれはわずかな輝きを放つこともなく、調理台の上で天井を見上げていた。人差し指ほどの大きさだが、もとは金だったのだろうか。十字架に蔓草が絡み付いているデザインで、わずかに色味が異なる大小の琥珀色の数珠で繋がれており、首からさげられるようになっていた。
母の形見だというのなら、なぜもっと早く自分に見せてくれなかったのだろう。
ほんの少しむくれながら、ナタリアは古びたロザリオを首に掛けてドレスの胸元にしまった。
「……兄さんの念が込められているなんて、なんだか呪われそうで恐いわ」
苦笑しながら、服の上からロザリオにそっと触れてみる。肌に伝わる冷たい金属の感触が不思議に心地良く、不安と一抹の寂しさを宿したナタリアの心を撫でるようだった。




