羽を蝕む
羽を蝕む
世界が崩れ落ちるのはいつも唐突だ。
さあ、今から始まりますよ、とは教えてくれない。開幕の、もしくは閉幕の時を告げない。
心の準備など。
あの日も。
腹から血をどくどくと流す母親の姿を見る寸前まで、美羽の世界は通常通り、平穏な顔を見せていた。
歯車の狂う音は飽くまで森閑として聴こえず、気付けば悲劇は眼前にある。
美羽は鉦を鳴らそうと、パソコンの横に手を伸ばした。
しかし美羽がそれを掴むより早く、秀比呂がそれを奪う。
「帰蝶。可哀そうに。まだ声が出ないんだね。でもこれで、二人きりだ。余り時間はないんだけど。ごめんね」
そう言いながら自分の頬に伸びる白い大きな手に、美羽は恐怖した。
目を閉じてそれを振り払う。
「―――――どうした、帰蝶。私が判らないのか?義龍だ。兄の。そなたを誰より愛おしんだではないか。私たちは、愛し合っていただろう?」
愛し合っていた。
同じ言葉でも竜軌の声の響きとは全然違う。歪みねじれている。
秀比呂は口を動かしながら、美羽のブラウスのボタンを外していた。一つ一つ、丁寧に外されていく。汚す為の丁寧さに宿るのは狂った愛。
硬直した身体を抱き締められる。
「ああ、帰蝶――――――」
美羽は茫然としていた。
ただ頭の中で、狂ったように竜軌の名前を呼んでいた。
〝お前を守ってやる〟
髪の毛や脚を秀比呂の手が這いずり回る。滑らかで、大きくて、それを以てして美羽を壊そうとする。
(竜軌竜軌竜軌竜軌竜軌)
美羽はお守りのように、心に竜軌の笑顔を思い描いていた。笑顔や真剣な顔や、意地悪な顔、怒った顔、傷ついた顔――――――。
傷ついた顔が浮かぶと、胸が痛んだ。
彼を傷つけたから罰が当たったのだろうか。そんな風にも考えた。
その時、襖の向こうから叫ぶ声があった。
「美羽様。美羽様っ。おられますね。ご無事ですかっ!」
蘭の声だ。襖を開けようと試みているようだが、掛金がそれを妨げる。
念の為と思ったのか、秀比呂は美羽の口を塞いでいた。
おぞましい手。
「―――――――襖を破ります、ご容赦を」
鈍い音が何度か響くと襖がへこみ、蝶番が壊れたようだった。
そこまでするとは考えていなかったのだろう、秀比呂は驚いていた。
「…美羽様」
室内に踏み込んだ蘭が美羽の惨状を見て、瞠目ののち駆け寄ると、秀比呂の身体を美羽から引き剥がし殴り飛ばした。
「これは犯罪だぞ、朝林!!」
美羽を背後に庇った蘭が吼えた。




