そんな事実
そんな事実
「……あいつめ」
胡蝶の間で低く唸った竜軌に、美羽が首を傾げる。
〝どうしたの?〟
答えずに波打つ黒髪の一房をつまみ上げる。
「お前、猫は好きか?」
〝好きだけど〟
「なら、皮は剥ぐまい」
一房からパッと手を放す。
竜軌は美羽の髪にじゃれるのが好きだ。玩具じゃないんだから、と思いながらも美羽は自由にさせている。竜軌に髪を触られるのは、嫌ではない。
〝何の話よ。何て残酷なこと言ってんのよ〟
「だから、しないと言っているだろう。来い、美羽」
ポンポン、と胡坐をかいた自分の膝を叩く。
じり、と美羽が躊躇う。
「―――――おいで」
そう言ってやれば、蝶はふわりと舞い降りる。
〝ねえ、竜軌。私、子供のころにあなたと会った?〟
間近にその文字を読み、竜軌は首を横に振る。
「いや。そんな事実はない」
〝本当?どこかで以前、会ってない?〟
「美羽」
呼びかける吐息が唇に当たる。
「俺が今、お前の目の前にいる。お前は、それでは足りないか?」
夜のような瞳に覗き込まれ、メモ帳とペンを取り落す。
ずるい言い方、と美羽は思う。それから竜軌の台詞が引っかかる。
〝そんな事実はない〟
何だか他に、重視すべき事実があったかのような物言いだ。




