水面の下の下
水面の下の下
襲われたことがあるのかと訊いたら、彼女は綺麗な顔立ちを強張らせた。
誰にだと更に問うと、痛みを堪えるように、紅を注した唇を噛んだ。
まさかとは思うが、と前置きしてその名前を出した。
〝斎藤義龍。お前の兄か〟
帰蝶の顔が青ざめた。
なぜその名を出したかと言えば、斎藤道三に体面した折、義龍が自分を激しく睨み据えていたからだ。単純な敵愾心には見えなかった。
彼の顔を醜く歪めていたものの正体は嫉妬だ。
嫉妬の顔の醜悪さは判りやすい。特に男のそれは。
義龍が異母妹に恋慕していたとすれば得心がいく。
帰蝶は生き地獄にいたのだと信長は察した。
信長の目に映る蝶から、鎧が剥がれ落ちた瞬間だった。
女を哀れと感じたのは、あれが初めてだったかもしれない。
〝守ってやると言えば信じるか〟
信長の言葉に、帰蝶は不可解な表情を示した。
長い間のあと彼女は、信じたい、と答えた。
それがぎりぎりの本音だったのだろう。
(だから守ってやることにした)
そう思った対象は帰蝶だけだった。
朝林秀比呂は一筋縄では行かない男に見えた。
(万一、俺に何かがあろうと真白がいる)
彼女ならば美羽を守ろうと動く。
(その為に、情の深いあの女を引き摺りこんだ)
真白を利用する竜軌の目論見に、荒太は気付いている。
荒太の取り扱いには慎重を期さねばならない。
真白と美羽を秤にかける事態が起これば、荒太は美羽を切り捨てる。
諸要素に気を配り、洞察と計略を重ねる必要がある。
この局面を過ぎれば、蝶と一緒に飛び立つのだから。




