番外編・安楽
国外へ発つという竜軌から電話があったのは、まだ寒い初春、二月のことだった。
京都での一戦以来、初めての竜軌からの連絡に一芯は驚いた。
「今更、何の御用か。信長公」
驚きの余り、つい冷たい口調になってしまった。
京都で自分が竜軌に挑み、そして敗北したのは事実なのだ。
「佐原一芯。お前に教えておいてやろうと思ってな」
「何を」
「立ち位置をたまには変えてみろ」
「立ち位置だと?―――――公には何が見えている」
「真が見える。世が見える」
「何が言いたい」
これが、相手が竜軌でなければとんだ大言壮語と莫迦にすることも出来るのだが。
「なぜ、今、この現代に戦国武将たちが転生してきたと思う」
「それは―――――」
たまたまだろう、と言おうとして言葉が途切れた。
そんな偶然などあるだろうか。
次の竜軌の声は低くなった。
「我らが転生の所以は、今の世が戦乱を望んでいるからだ。だから俺たちは磁石のように引き寄せられ生まれ変わった。太平洋戦争が終わり――――社会は知らず暗闇に転がろうとしている。懲りぬ人の世に、安寧の中に戦乱を―――――そうした気風が、今俺たちが在る答えだ」
「―――――…」
「お前には伝えておこうと思った。じゃあな」
電話はそれで切れた。
電話を受けた一芯の私室には学校帰りの薫子が来ていた。まだ二人共、制服姿だ。
「一芯?どうしたの。誰からの電話?」
低い声で遣り取りされた声は薫子に聴こえていなかったようだ。
「信長公」
「えっ。何て?」
「薫子の陥落法を教えてくれたよ」
「何それ!嘘でしょ」
ずざざ、と薫子が一芯から距離を取る。
「その反応、傷つくなあ」
「また約束が何ちゃらとか言い出す気でしょ!」
「貰ってないし」
「あげるって言ってないし!」
どんどん壁際に追い詰めた薫子の紅潮した頬に、一芯は口づけするだけに留めた。
竜軌にも薫子にも勝てないと思いながら。
京都で竜軌を始めとした戦国武将らが戦端を開いたあと、薫子と一芯は無事、東京への帰路に就いた。
そこからが問題だった。
一芯は、生きて帰れば薫子を頂戴出来る約束だった筈、と主張した。
薫子は、そんなことは言っていないと言い張る。
見解の相違だ。
隙あらば迫ろうとする一芯に、薫子は苦戦を強いられていた。
「無理強いは良くないぜ、殿。姫はまず俺をご所望なのさ!」
ばちん、とウィンクするのはいつの間にか部屋に上り込んでいた成実。
そんな彼の台詞を無視して、一芯が珍しく成実に労いの言葉をかけた。
「成実。京都ではお前もご苦労だったな。鬼武蔵の相手は骨だったろう」
毒島丈太郎こと伊達藤五郎成実は、京都で織田方の猛将である森勝蔵長可と戦ったのだ。
森長可はその猛将ぶりから鬼武蔵との異名がある。
それと互角に戦ってみせた成実の力量は、賞賛に値するものだった。
「相手の得物が『人間無骨』だけにな!けどまあ、久々に歯応えのある相手と戦り合えて楽しかったぜ」
成実がにやりと笑う。そんなところは根っからの武士であると思わせる。
「それで姫を俺が頂戴するという約束だが…」
「どさくさに紛れて嘘八百を抜かすな」
これは最初から部屋にいた小十郎の突っ込みである。
「もう、一芯もぶっしーも、何言ってんの!?今日は帰る!」
赤面した薫子が言い放つ。
「え、晩御飯作ってくれないの、薫子…」
「自分で作ったら!?おじさんたちが買いつけに海外行くたび、あたしにおさんどんさせないで!!」
そう言って嵐のように少女が去り、部屋には男三人がむさくるしくも残された。
「信長公は何と仰せられたのか、殿?」
「ん。まあ、ちょっとね」
何となく伝える気になれず、一芯は言葉を濁した。
小十郎と成実が窺うように自分を見る視線を感じながら。
以前であればここに青鬼灯も加わったかもしれないが、彼は成瀬真白を襲い、真白の夫である成瀬荒太の刃の露と化した。
忍び仲間だった赤花火は、「ほんとに卒塔婆になりやがって」と苛立たしげに吐き捨てていた。
いくら生まれ変わりがあろうと、取り返しがつかないものが死であると認識している一芯たちにとって、青鬼灯は軽挙妄動が過ぎたのだ。
そういう思いが強いせいか悼む気持ちも余り湧かず、薫子には少々冷たいと言われてしまった。
情の濃い、姫様育ちの薫子らしい。
「黄熊やお前たちは青鬼灯の二の轍は踏まないだろうな」
ここにはいないまだ小学生の黄熊は前生より生真面目で、冗談を解さない程だ。
成長しても、青鬼灯のように女の色香に迷って失敗することはあるまい。
小十郎、成実もまた然りである。
自分から作らないと言い出したものの、今頃一芯は何を食べているだろう、と、湯船に浸かった薫子は考えていた。
京都から一芯が無傷で生還してくれたことは、本当に僥倖であったと思う。
ぱしゃん、とお湯で顔を洗う。
だからと言って、彼と結ばれる云々はまだ先の話だ。
一芯は忍耐強い。
今は口では約束がどうのと言っているものの、きっと待ってくれるだろう。
数種類のハーブの入浴剤が入ったお湯に肩まで浸かりながら、薫子はそう考えていた。
前生で政宗に輿入れしたのは十一の時だった。
現代とは年齢の感覚が違い過ぎる。
当時の記憶を思い出した薫子は、危うくのぼせるところだった。




