番外編・それぞれの
黒いスチールの上に置かれたガラス板。その上に置かれたノートパソコン。
フローリングの床はワックスに艶光るだけで椅子の軋みをキイとも伝えない。
デスク背後のブラインドウシャッターからは斜めに早朝の青白い光が差し込む。
その前に座り、組んだ両手で口を塞ぎ、蘭はやや乱れた前髪の下から深刻な面持ちを晒していた。派手な美貌が深刻な顔をしていると、空気までが深刻さに染め上げられそうだ。
「にょぼん。にょぼんにょぼんにょぼん」
さっきから彼は頻りとこの呪文のようなものを繰り返している。
気が触れてはいない。
坊丸と力丸はそんな兄の様子をデスク前から窺っている。
「成利兄上は何をぼにょぼにょ言っておられるんだ?昨夜は遅かったようだが…。てか香水きっつっ!」
猿並みの弟と違い坊丸は、兄の苦悩を察することが出来た。
にょぼんとはつまり女犯のこと。僧が戒律を破り女性と交わりを成すことを意味する。
「良いではございませぬか、兄上。僧侶ならばいざ知らず。兄上は世俗の立派な成人男性にございます。まして相手は婚約者殿!」
だが蘭の反応はシェイクスピアの俳優もかくや、と言うほど己を嘆くものであった。
「婚前交渉はすまい、聖良さんを大事にしようと思っていたのに。私という男はあの、あの、魅惑の果実を味わってしまった…絢爛たる黄金!!」
言っている本人も言葉の手綱が取れていない。
頭を左右に激しく振ると、ばさばさ、と髪の毛もそれに倣った。その軌跡がまた光り輝くようなのが蘭である。
「やるな、兄上!いや、ヤッたのだな、良いじゃん、ってえ!!」
ここで坊丸による拳が力丸の頭に見舞われる。
身も蓋も無い言い方、品の無い物言いは兄たちの嫌うところである。
「婚約指輪の用意も何も無かったのだぞ!上様は美羽様の誕生石であるトパーズのリングをご用意されていたと言うのに……!」
しかも竜軌は、トパーズの中でも最上級と言われるインペリアルトパーズを美羽に贈った。
「そこは兄上。上様ゆえに」
坊丸の理屈になっていない理屈が、不思議と功を奏するのがこんな時だった。
〝上様ゆえに〟
この言葉は竜軌と信長を知る者にとって、良くも悪くも納得させられるものであった。
兄の部屋を、頭をさすりながら力丸は退去した。
半ば坊丸に引き摺られるような体である。
前生も含めて、力丸は女性を知らない。
身を焦がすような恋愛も知らず、ただ、今は美羽への思慕があるだけだ。
それから遠い記憶の彼方に――――――――。
(あの娘)
花代という名の、安土城勤めだった娘が、本能寺の変の後どうなったのか。
死んだ力丸は知らない。
十五歳当時、力丸は織田信長の本拠地である安土城内で、兄・蘭丸、坊丸らと共に小姓として仕官していた。
信長は万事が気難しく、慌ただしい毎日だった。
埃が僅かにも落ちていれば絞られる。
一度、唐菓子の桂心を持って参れと言われたのに、間違えて索餅を厨から持って行った時には、ひどく叱られた。これが信長一人のことであったから良かったものの、客があっての出来事であれば何とする、と。力丸は伏せた面を上げられなかった。
信長は一頻り力丸を叱りつけると、あとはもう放っておいた。
兄たちは消沈した力丸を遠巻きに見守った。
濡れ縁で頬杖を突いて、ついでに溜息も吐いていた時に通り掛かったのが花代だった。
洗濯物の入った盥から、一枚の小袖が落ちそうになったのを、力丸が掬い上げてやったのだ。
「ありがとうぞんじます」
花代の朱に染まった両頬の、えくぼが愛らしくて、また逢いたいと思った。
その後、花代目当てでその濡れ縁をうろうろしていた力丸は、その甲斐あって二度、花代に逢うことが出来た。
今度、上様のお供で京都に行き、本能寺に宿をとるのだ、と話すと、恙なくお勤め果たされませ、と送り出してくれた。
夏の候。
それが最後だった。
(似ても似つかないんだがな)
惣菜屋で、いつものようにだらだらと長椅子を占拠しながら、力丸は佳世の顔を見てそう思う。
顔立ち云々より、花代はもっとしとやかな娘だった。
間違えても箒で自分を突いたりなどしない。
ではあっても、好ましいと思わなくもない。
不思議なものだ、と力丸は思う。
あの、本能寺が炎上した夏から、今年で何度目の夏になるのか。
失われた恋を、少年は再び手繰り寄せようとしている。




