兄の仇
「りゅうき!」
「美羽様、なりませんっ」
竜軌に駆け寄ろうとした美羽を、力丸が止める。
「恐らく今の呪言は怨敵を懲らしめる陀羅尼です。上様は言わば、道三から近距離で呪詛を受けられたと同様なのです!」
「りゅうき、」
「大丈夫、命はご無事でおられます」
蘭も美羽に何か言ってやりたいが、義宣の相手が忙しい。
何せこの金髪の若武者、脇差で果敢にも大身槍の砕巌と互角に近い立ち回りを演じてみせるのだ。
砕巌の朱い柄を掴み、前後左右、自在に操ることで蘭のほうが有利に立ててはいるものの。
油断すれば戦局はどう動くか判らない。
「ほ?これで仕舞いか。なあーんや。第六天魔王も大したことないなあ」
黒ずんだ紅のコートが、まだ浴衣姿の竜軌に近づこうとして、歩みを止める。
竜軌が、ゆらりと立ち上がったのだ。
駆け寄ろうとする美羽を、手で制する。
「礼を言うぞ、道三。今ので記憶が戻った」
「―――――――なんやて?」
「ある陰陽師から呪詛避けの呪符を貰い受けていてな。肌身離さず持っていたのだが、今のお前の呪詛の負荷に触発されて、俺自身の今生の記憶も戻った」
右手人差し指と中指に挟み、ひらひらと呪符を振って見せる。
くしゃくしゃ、と丸めると何の術かそれは白い小鳥となって、竜軌の手からぱたぱたと羽ばたいていった。
「…………」
「さあ、どうする?御自慢の調伏陀羅尼が破れたぞ?お前が俺に勝る武術を嗜むとも思えん」
「…………」
次に竜軌が唱えた言霊は、氷のように冷え冷えとしていた。
「起きろ、六王」
呼び出される、美しい黒漆の素槍。
力丸が、竜軌から美羽を更に後退させる。
蘭も、耳に主君の凍てついた言霊だけを捉え、軽く戦慄した。
竜軌が六王を振るう動作に、迷いは微塵も無かった。
まずは右肩を刺し貫く。
「ぎいやあああ」
「煩い」
左肩。
「があああああああ」
「……」
悲鳴の聞き苦しさに、竜軌が眉をしかめる。
「き、帰蝶、帰蝶、儂を助けてくれっ」
滅多に頭に血が上らない竜軌が、この瞬間はかっと熱くなった。
どこまで厚顔無恥な男か、と。
美羽は美羽で、朧に思い出す記憶があった。
父に愛されなかった兄・義龍。
孤独のままに、死んでいった。今生でさえ――――――――。
(愛されなかった兄上)
信長は義龍を殺すと息巻いていたが、帰蝶は父・道三をこそ憎んでいた。
信長も後にそれに気づいた。
狂うまでは優しかった義龍。
〝そなたは名前の表す通り、蝶の舞う如き姫だ〟
〝私は父上に嫌われてはおるが〟
〝詮方ないのだ。左様な星のもとに生まれたのであろう〟
〝そなたはどのような男に嫁ぐのであろうな。私の蝶を、大事にしてくれる男であれば良いな〟
(兄上。兄上。兄上―――――)
堰を切ったように、幼い頃、帰蝶に義龍が言った言葉が反芻される。
美羽は双眼から涙を流していた。
すまなかった、と最期に詫びた義龍――――秀比呂。
「りゅうきっ!!」
怒号は、竜軌でなく、父上、と怒鳴った積りのものだった。
(どうして?)
ほんの少しの愛情だけで、義龍はきっと生きていけたのに。
父に愛されず疎まれた傷は、転生してまで義龍を苛んだ。蝕んだ。
(お優しかった兄上を返して)
「帰蝶、娘であろうが、儂を助けいっ」
その時。
美羽の中でふつり、と何かが切れた。
義宣を下してその首元に砕巌を突きつけた蘭の目に、美羽の纏う空気が竜軌のそれと酷似して見えた。
即ち、覇王の怒り。
「力丸」
「は」
「美羽を連れて一足先に戻れ」
「畏まりました!」
美羽は嘗ての父の命乞いを物の見事に無視した。
(あの世で兄上に詫びれば良い)
けれど。それでも。
(…お父さん……)
今生の父を、美羽は思い出して眉根を寄せる。
道三とは欠片も似ていない人だったのに。
優しくて弱い人だった。
「…りゅうき」
「…なるべく楽に、と言っておいでです」
力丸が美羽の言葉を竜軌に翻訳する。
なるべく楽に死なせてやるよう、美羽は頼んだのだ。
「甘い。目を刳り抜いてもまだ足りんところだが、美羽が望むなら楽に死なせよう」
「帰蝶っ、この親不幸者が、」
道三の声は鈍い音と同時に途切れ、美羽は力丸につき添われて、道三の結界から旅館の部屋に戻った。
戻って、泣き崩れた美羽の近くに力丸は侍り、正座してただじっと俯いていた。
やがて竜軌と蘭も戻った。
結界を張った道三が死んだことで義宣も退いたそうだ。
泣いていた美羽は竜軌の姿を見ると、その胸に飛び込んだ。
秀比呂に対して遣る瀬無い思いが、まだ美羽を悲しませていた。
蘭と力丸が退室し、竜軌も一仕事終えた顔つきで脚を投げ出して畳に座り、美羽の身を自分に寄り掛からせ、その長い髪を撫でている。
「美羽」
呼ぶ声の優しさに一層、泣きたくなる。
「終わったよ。明日にでも琵琶湖を見に行こう」
美羽は頷いた。
竜軌が信長だろうが何だろうがどうでも良い。
彼が彼で、自分を愛してさえくれるなら。




