逸る竜と怯える蝶
初めて竜軌に貰った伽羅の香り袋。
百合の樹の傍で交わした口づけ。
金木犀の練り香水。
「りゅうき」と呼んで愛を告げられた夜。
それら大切に育んだ思い出の全てを。
(憶えてないの?)
「りゅうき」
だが竜軌の反応は素っ気ない。
美羽に竜軌と呼ばれることに苛立っているようでさえあった。
「俺はりゅうきとやらではない。信長だ」
(信長?織田信長?)
そう言えばさっき、本能寺で自分と死んだと言った。では自分は美濃の方。
きちょうとは、帰蝶のことだったのか。
(――――――信じられない)
まさか竜軌の前生が、彼の有名な織田信長だなどと誰が思うだろう。
「すまなんだな、帰蝶。機嫌を直せ」
美羽の機嫌を取ろうとするところは、確かに竜軌と同じだ。
美羽が背伸びして抱きつけば、抱き返してくれる。
「りゅうき…」
「…それが俺の今生名か」
「りゅうき」
「――――――お前、もしやそれしか喋れぬのか?」
訝しむ竜軌に、蘭が短く説明する。
「御方様におかれましては御幼少のみぎり、お心に深く傷を負われることがございまして。目下、上様のお名前と〝大好き〟としか口に出来ずにおられます」
「心に傷だと?」
竜軌の声が俄かに尖る。美羽の身を抱いたまま、蘭に質す。
「義龍か、道三か」
「いえ、別の件です。それに――――義龍はもう死にましてございます」
「重畳。道三もこの地にいるな?声が聴こえる。この磁場の強さ…ここは京か」
「はい」
「そうか。ならば」
仕留めに行く、と竜軌は告げた。
狩りをすると言うかのように冷淡な口調に、美羽はぞくりとした。
それを宥めるように竜軌が美羽を掻き抱く。
「待っておれ、帰蝶。お前に道三の躯を見せてやる」
そんなのは見たくない、と美羽は思う。
早く一緒に琵琶湖が見たい。
早く二人で幸せになりたい。
美羽はもう、血を見たくないのだ。




