Who are you?
美羽を愛していた竜軌には道三の声が聴こえなかった。
「オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ」
菱川師宣画『好色一代男』の挿絵が描かれた金色の屏風の前で。
手は大独股印(人差し指同士を立てて密着させ、他の指は立てずに組んでいる)を結んで、道三は一万遍、これを誦していた。
専ら戦勝祈願で行われる大威徳明王の調伏法だ。
しかし呪術に通じた彼でさえ、この法を京都という場で用いることの危うさを見落としていた。
「オン・キリクシュチリビキリ・タダノウウン・サラバシャトロダシャヤ・サタンバヤサタンバヤ・ソハタソハタソワカ」
一万遍、誦じ終えた時はもう真夜中だった。
そして京都の磁場が大きく揺れた。
とりわけ神気を持つ者の間で、時間軸が歪んだのだ。
突然に竜軌が動きを止めたので、美羽はどうしたのだろうと思った。
「りゅうき…?」
竜軌は止まったまま動かない。
美羽を凝視している。
「―――――――何だ、お前。…帰蝶か?」
これは誰だ、と美羽こそが思う。
こんな横柄な声、竜軌は美羽に対しては出さない。
「ふん。まあ良い。楽しむとするか」
そう言って伸ばされた手を、美羽は避けた。胸元を掻き合わせる。
「おい。そのような恰好で、俺を楽しませるのではないのか」
美羽は必死に首を左右に振る。その顎を掴み、上向かせられる。
竜軌の目は冴えていた。怖いくらいに。
「―――――――――答えよ。お前は何者だ?」
改めて真顔で居丈高に尋ねられ、美羽は絶句した。
異変は真白たちの間にも起こっていた。
朝。
真白の部屋をノックした剣護は、ぶつかるように飛び出してきた真白に面喰らった。
「おっと。どうした、真白」
それには答えず、真白は潤んだ目で剣護を見上げる。
「太郎兄…。お逢いしとうございました」
そう言って縋りついて泣く真白に、剣護は混乱した。
「え?真白…?」
すると真白が柳眉を切なげに寄せた。
「太郎兄、若雪でございます。お忘れですか」
「………」
真白にふざけている様子はない。自分が前生の若雪のままだと思い込んでいる。
これは一体、どういうことだ。
まるで真白の内側の時間が過去に戻ってしまったようだ。
「太郎兄」
その湿った声は剣護に、過ぎし日、二人で夫婦として暮らしていた頃を思い出させた。




