鬼神
もうそれぞれの布団で寝ようとしていたところ、一芯に後ろから肩を攫うようにして抱かれ、危うく薫子は悲鳴を上げるところだった。
襲われる、という言葉が頭に真昼の陽のように浮かび、思わず浴衣の襟元を押さえる。
「義父上に――――――田村清顕殿に感謝申し上げる」
唐突に耳元で囁かれたのは甘い愛ではなく、切実な声だった。
田村清顕、即ち、薫子の前生である愛姫の父だ。
慈しみ、愛し育てられたその記憶は、今でも朧に憶えている。
「…どうしたの、一芯?」
「どうもしないよ。何を知ったところで、僕の手を緩めるものではない」
寺町通りで、斎藤道三の転生者が何を口走ったところで―――――――。
だが衝動的に腕が動いたのは事実だ。
「…………」
「その一方で、あの、孤高の第六天魔王に共振しそうになる僕もいるよ。薫子…」
薫子の肩口に頭を埋めた一芯の髪を、薫子は柔らかい手つきで撫でた。
「…一芯が、望むようにすると良いわ。戦も斬り合いも、なるべくならして欲しくないけど、知らん顔で小次郎様…雪音君を生かしておいた一芯だもの。信長公に対抗心を抱こうと、みだりな流血はしないとあたしは信じる」
ふっと一芯が、少年らしく破顔した。
彼女の信頼を裏切りたくない。
「りゅうき?」
布団の上で胡坐を掻いていた竜軌が、美羽の左手首を掴んで抱き寄せた。
煙草と蠱惑的な甘さの香る胸に迎え入れられる。
「りゅうき?」
再度、呼んだが返事は無い。
美羽を閉じ込める腕も、子供にする抱擁のようだ。
「…俺も散々、魔王だの悪鬼羅刹だの言われているが。どうしてどうして、その上をゆく者はいる」
声は低く、凪ぎ過ぎているくらいだ。
「お前の誕生祝に、能を舞ってやると約束したな。足も治ったことだし、明日にでも舞ってやろう。この旅館には能舞台もあるし、丁度良いだろう。曲は『土蜘蛛』か『石橋』にするか。聴いたかもしれんが、俺は〝五番目物〟と呼ばれる種類の能が好きでな。『土蜘蛛』はざっと言えば鬼退治の話なんだが、印象に残る詞章が出てくる」
美羽がそれを問う瞳を竜軌に向けると、竜軌が淡く笑んだ。
「情けなしとよ客僧たち、偽りあらじといひつるに、鬼神に横道なきものを」
抑えた声で唄った竜軌に、美羽は疑問符を浮かべた顔だ。
「裏切られたと知った鬼の叫びだ。〝鬼神はそんな正しい道から外れたことはしないぞ〟とな」
竜軌は、〝殺すだけでは飽き足らない〟人間のことを、鬼神にすら劣る、と言っているのだろうか。彼自身が鬼神を同類のように思っていそうなところもあるが。
「は、やく、」
美羽が唇を動かすと、声音に耳を澄ましながら、竜軌が口元の動きを凝視した。
「うん?」
「…わ、こ」
「琵琶湖?」
美羽は頷きながら、微笑んで続けた。
「みた…い、ね」
同じ旅館の別室で、力丸が高鼾をかいている横、蘭は襖にもたれていた。
らしくなく、崩れた姿勢だ。
手には聖良を待ち受け画面にした携帯。
主な電気を消した室内で、そこだけが明るい。
聖良の発散する空気に似ていると思う。
明るくて、ピカピカして、寂しい女。
自分を選んでくれた上は、泣かせてはならない。
幸いにも京都には頼もしい兄弟もいる。竜軌が呼べば父・三左とて飛んで来よう。
(…逢いたいな…)
無論、父でなく。聖良に触れたい。
陣中で思うことではないのだろうが。
画面の笑顔に見入る。
必ずしも、明日の朝日を拝めるとは限らない現状。
また、拝めても、他者の血で手を汚すかもしれない。
(致し方なし。それが武者だ)
とうに割り切っていることだ。
だが聖良が泣くのも彼女から嫌われるのも辛いし、まだ自分は彼女を抱けてすらいない。
蘭も男である。
もし、再び京都を死地とすれば、それは心残りになるだろう。
液晶画面と間接照明だけの室内に、静かな空調音が響き、外に吹く風の音までは蘭には届かない。




