君が君で
その晩。
夜闇に薄い雪がちらちらと、京の路上を隠したり隠さなかったり。
或いは融け、或いは薄く残り。
微笑のように。
思わせ振りな京女めいた表情をはんなりと見せていた。
花と呼ばれた往時の都も、織田信長の手が入るまでは惨憺たる有り様だった。
手が入る。
つまりは体裁が保てるだけの金を融通するという―――――――。
「政治より経済の安定。基本だよね。ま、現代では」
「何よ、いきなり」
一緒に部屋で夕食に舌鼓を打った薫子が、お茶を飲んでいた顔を上げ、一芯を見る。
料理の内容は旅館の威容に相応しい、雅に洗練されたものだった。味に煩い一芯も満足した。竜軌らが宿を移ったことも、彼の精神をひとまずは落ち着かせていた。
一つ屋根の下では、さすがに近過ぎる。
小十郎らは一芯と薫子に遠慮して、自室で夕食を済ませている。前生において主君とその正室であった二人と、食膳を囲むことに慣れていないせいもある。
「生活に充足していれば、不満の声は上がらないってこと」
「そうだけど。言うほど簡単じゃないでしょ?」
「もちろん。どこの国でもね…」
浴衣に丹前を羽織った薫子を眺める。
(斎藤道三、か)
京洛にいるとの情報を伝えたのは青鬼灯。
〝竜知らずただ見る蛇も在ると知れ〟
佐竹義宣の言葉が腑に落ちた。
竜は竜軌。蛇は道三だ。
(信長公がまだ知らないかどうかは疑問だな)
あちらには嵐下七忍もいる。
帰蝶を苛んだ義龍。義龍を堕としめた道三。
竜軌は道三を許すまい。
敵の敵は味方という言葉はあるが、一芯は個人的に道三が好きになれない。
例えば今、目の前に座る薫子が、帰蝶と同じ境遇に置かれていたら――――――。
ずたぼろにされ、見るも無残な有り様で、政宗と出逢っていたら。
栗色の、柔らかそうな髪。
少し上気した桃の頬。
大きな瞳には、薫子の心根の素直さと優しさが光っている。
それらを蹂躙する相手がいたら、と想像すると、不本意なことに竜軌の気持ちが解ってしまうのだ。
ともあれ、情にばかり流されてもいられない。
(今の蝮を知る必要があるな)
人は良くも悪くも変わる可能性がある。
「田村の家が、円満で良かった」
「え?うん」
再び話が飛んで、薫子が目をぱちぱちさせている。
薫子の前生・愛姫の父である田村清顕は、一人娘を大層、可愛がっていた。
政宗が惹かれた愛姫の健やかさと素直さは、家族の愛情の中で育まれたのだ。
他方、信長と逢った時の帰蝶はどうであっただろうか。
悲惨な状態だった筈だ。
猜疑心と絶望に満ち。
(それでも愛したのか。あの男が…)
何より執着するほどに。
「…人間ってよく解らないね。薫子」
「一芯。さっきから言ってることがよく解らない」
「ごめん。考え事してて」
「―――――大丈夫?」
上目遣いに見られる。
奥州の覇者、独眼竜を一人の少年として心配している。
そのことを一芯は、そこらに転がる幸運とは思わない。
(そんな感じか。信長公も)
「大丈夫だよ。薫子も、雪音もいるしね。明日の午前中は、お師匠さんとこの手伝いに行くけど」
「うん。ついてく。あたしもお手伝いするわ。花見小路?」
「そ。手、繋いでいこ?」
「………」
「いこ?」
「…う、うん」
「ありがとう。――――――それでも僕は、君が君で良かった」
「え?」
「何でもないよ」




