糺の森で蛇を知る
千丸が新たに手配した旅館は下賀茂神社近くの、閑静な住宅地内にあった。
冬の風に乗り、糺の森の厳粛で厚みのある、鬱蒼とした空気が流れてくる。
チェックインの時間が迫るまで鱗家で過ごし、竜軌と美羽、千丸は再び車中の人となった。タクシーで宿に着くまで、美羽は笹恒の言葉の意味を竜軌に尋ねた。
〝あの子、竜軌のこと、すごく怖がってたわよ?〟
「ほう。なぜだろうな」
〝ちょう役刑にされるとか、罰金を取られるとか〟
「…ああ。あいつが以前、道に菓子クズをぼろぼろこぼして、空き缶をほっぽり出したのを俺が偶然、目撃した。それで、お前のしたことは不法投棄という名前の、それはそれは重い罰を受ける罪なのだぞ、と」
〝脅したのね?〟
「年長者として訓戒を垂れただけだ」
〝罰金一億円なんて、聞いたことないわ〟
「可愛い従弟のがきへの愛情表現だ」
要はからかって遊んだのだ。
美羽が横目で軽く睨むと、竜軌はふふん、と不敵に笑った。
(竜軌って昔っから、金太郎飴みたいに、どこを切って取り出しても竜軌だったんだわ)
呆れながら、美羽はそれでもその事実を嬉しいと感じる。
(いつでも、私の好きなあなただったのね)
車中で、春の陽のような竜軌の表情が変化したことに、美羽は気付かなかった。
「千丸。美羽を連れて先に入ってろ」
命じられた千丸の顔は、陣中に在る将兵のように引き締まった。
「―――――上様はどちらへ」
「糺の森に客人のようだ。くそ寒い中、ご苦労なことだ。行ってやらねばなるまいよ。美羽を任せて良いな?」
「拝命します」
「りゅうき?」
不安に顔を曇らせる少女に、竜軌は笑いかける。
「待ってろ、美羽。すぐ戻る」
「りゅうき、」
「心配するな。大事には至らない用件だ」
多分、と胸中でつけ加えながら、竜軌は笑みを崩さなかった。
愛しい少女を安心させる為に。
指が欠けても腕が切れても脚を失くしても、竜は笑う。
これまでずっとそうしてきたように。
糺の森は神気に満ちている。
神器の力も増し、結界も強固になる。
京都にはそんな磁場のあるスポットが多い。
人を見下ろす高木に挟まれた道は土も侘しい風情で、雪のちらつく有り様が、尚、その侘しさを増していた。
(侘びさびの趣か。宗易あたりならば好んだであろう)
古の、そして存知よりの茶人を思い出す。
人気の無い道の先に待つのは、しかし彼ではない。
威風纏い、立つ猛者は。
「手短かに済ませろ、最上」
「今生でも短気か。それゆえ縮めた命であろうに」
口髭をたくわえた美丈夫。最上義光。
蘭たちの父・森可成の華やかな美貌とは異なる、渋みの強い、潔く枯れた大樹を思わせる美を湛えている。鼻筋や唇が直線を描き、柔和が少ない。
炯々とした眼光は、並みの者ならば萎縮するであろう。
竜軌には見慣れ過ぎてどこ吹く風、であるが。
「くそ寒い。とっとと話せ」
「伊達をいなせ」
「あん?」
「正面から当たるな。双方、被害が出よう」
竜軌は義光を無遠慮に上から下まで眺めた。
「意外だな、最上。甥御可愛さか」
「娘可愛さよ。政宗と取り引きをした。お前にあれを潰されては困る。古来、喧嘩仲裁は年寄りの役割でもある。あ奴は一度決めたら止まらぬ。刃を交えるなとは言わぬが」
「……義光。その、骨の折れるお前の頼みを俺が聴くとして。こちらに相応の見返りはあるのか?」
「あるであろう。お前が蝶に溺れているのであれば」
「―――――――ほう…」
瞳を剣呑に眇めた竜軌の答えを、義光はただ待っている。
動じない岩のように。
「確約はせんぞ。戦闘となればな。極力、お前の意向を汲むとしか言えぬ」
竜軌の台詞はぎりぎりの譲歩だ。
義光の直線の唇が、ごく僅かに緩んだ。
「さても不思議なことよ。お前のような男が、女に囚われるか」
「なあ。俺はくそ寒いと言ってるんだが?刃で語るか?」
「美濃の蝮が京洛におるぞ」
竜軌の苛立ち混じりの挑発をそれこそいなして、義光が簡潔に告げたのは、聞き逃すことの許されない言葉だった。
竜軌の瞳が白刃の輝きこぼれるように収縮していく。
「…笑える虚言ではないぞ、最上」
「確かだ。斎藤道三の転生、潜んでおる。伊達の童も、そろそろ知る頃合いではないかな」
瞬間、義光は咄嗟に神器を呼び出すところであった。
相対する竜軌から、寒気を催す殺気が放たれたからである。
散る緑葉さえ、怯えたものかと見えた。
糺の森に、哄笑が響き渡る。
笑い終えた竜軌が、まだ笑みの残る口を動かす。
「朗報だ。実に、めでたい。礼を言うぞ、義光」
その晴れやかな笑顔に、義光は震撼した。
嘗て乱世を総べた覇者が、眼光らせ、粉砕すべき獲物を見出したのだと悟った。




