つながる糸
薫子は小次郎に、南雪音と名乗る少年に疑念は抱かなかった。
ただ懸念を抱いた。
小十郎が、伊達家兄弟の再会が望ましいことであると請け合い、一芯の為でもあると勧めたので、それに従うことに決めたのだ。
小次郎は政宗を裏切ったのではなかったのか。
しかしそれが真実であるならば、冷徹で苛烈な政宗の一面を知る小次郎が、今生になりおめおめと一芯のもとに参上するとは思えない。
何より、裏切り者の後ろめたさが小次郎からは感じられない。
昔と変わらない、兄への真っ直ぐな敬意と思慕を少年は見せる。
京都市バスの車窓からはまだ降り続く雪が見える。
左には小十郎と小次郎が並んで立っている。まるで昔のように。
兄弟に再びわだかまりの無い時が訪れることを、薫子は願った。
小次郎と対面した一芯の顔は、いつもより平淡だった。
そこから薫子は、一芯の気持ちの強張りを見て取った。
へらへらした笑い顔が常である幼馴染が、無表情。
ソフトブラウンのコートを脱いで、目の前に跪く少年を見ても。
「兄上」
「何で戻るかな?」
隻眼の少年は、ようやく薄っぺらい笑みを浮かべた。
左目を掠めたのは憐憫か、悲しみか、怒りか。小次郎は臆せず答えた。
「兄上の手駒となれましょう」
「そこが魔窟と知ってのことか」
「無論」
「そなたには似合わぬ」
「いいえ。既に畠山の者ら、殺めました」
一芯の右目は、その映像を捉えていた。
雪に舞う血色に懐かしい倫の刃が光り。
優しい弟が人命を絶つ。心痛まぬ筈が無いものを。
「そなたにはそぐわぬ」
言い回しと語調が微妙に変化する。
「己を殺した兄に、今更立てる義理もあるまい」
薫子が息を呑み、握り合わせていた両手に力を籠めた。隣に立つ小十郎は微塵も動揺する気配が無い。彼は真実を知るからだ。
「私は兄上に命を救われました」
「救う?…伊達家から名を抹消し、死人扱いし、一介の僧侶として人生を終わらせた。名声も、地位も、富も―――――――そなたから奪ったではないか。妻帯とて許さず、孤独の内に死ぬことを命じたのだ。武門の家に生まれた者に、それは殺されるも同然の処遇だ。僧門とて、生まれが物を言う。家柄を剥奪された身では僧としての栄達も望めぬ。薪割りも水汲みも、雑事とは無縁に生まれつき、俺とは異なり五体満足であったものを」
政宗が隻眼であることは家臣の不安材料の一つだった。伊達が割れる要因の一つでもあった。
「生と死。その狭間がどれだけ遠大であるか、あの時代を生きた者として、私はよく存じております。兄上が私を誅殺したと宣言し、言い広めなければ、二分した伊達家の一派に私は担がれ、真実、兄上の手に掛かることとなったでしょう。本来であればそれも辞さぬ状況。しかし兄上に御嫡男がまだおられなかったゆえ、伊達の血脈存続の為に私が死ぬこともまた危うかった。兄上は最善の策を打たれたと思います。御嫡男・兵五郎殿(伊達秀宗)がお生まれの後も、火種に成り得る私の命を見逃してくださいました。感謝申し上げております」
どん、と薫子が一芯に体当たり同然に抱きついたので、一芯は面食らった。
「え、薫子?」
「――――――――良かった、…殺してなかったのね、…あたしまで騙して、ぶん殴りたいけど、許す!」
「この場で君を押し倒すことを、」
「莫迦!……良かったね、一芯」
一芯の冗談をぴしりといなした薫子が、心から喜んでくれていることが判る。腕の中から甘くて優しい香りがする。栗色のボブヘアーから、少女の匂いが。
南国の花のようなそれが、雪景色を温かくした。
「…今生名は何て言うの?」
薫子を抱き留めたまま、一芯が弟に尋ねる。本物の微笑が口の端に滲んでいた。
「南雪音と申します」
「じゃあ、雪音と呼ぼう。…小次郎は不憫だったからな」
雪音がふわりと笑んだ。
「兄上は変わらずお優しく、義姉上を愛しておられるのですね」
「いーでしょー。でもまだ夫婦じゃないんだ」
一芯が薫子を見せびらかすようにしてから、肩を竦める。
「え、と――――。まだ…、」
「そ、まだー」
「一芯っ」
抗議の声を上げる薫子と、目線を彷徨わせる雪音の顔は薄赤い。
「小次郎様――――!!夜伽の相手として成実ことB・Jが参上したぜいっ」
パーン、と襖を威勢よく開け放った成実に室内一同の注目が集まる。
「…変わってないね。成実」
雪音が少女めいた優しげな顔に微苦笑を浮かべる。
「ぶっしー、いたんだ。…って、どこ触ってんの一芯!」
「柔らかーい。早く一つ布団に寝たーい」
ぐりぐりぐり、と栗色の髪に自分の頭を擦りつける一芯。手はどさぐさに紛れて薫子の腰から少し下に降りている。
「へい!何なら俺が三人まとめて相手をして、」
「殺ろうか、俺が」
成実の魔手の前に小十郎が立ちはだかる。
いつもの構図だ。
けれど薫子は一芯の笑顔が、いつもより年相応の少年らしく見えると思った。
「雪音」
「はい」
「よく戻った」
「はい」
転生には難儀も伴う。
前生における苦悩やしがらみを、新しい人生にまで持ち越す煩わしさなど誰も味わいたくはない。
だが記憶を保持するゆえ、繋ぎ直せる絆もある。新しくやり直せることがある。
今を生きる孤高の独眼竜の胸の凝りが、また一つ解けた。
※この話は九藤の希望混じりの推測に基づくフィクションです。




