天女天使
任務中に、花街からの朝帰り。
これは兵庫にも後ろめたいものがあった。荒太に知られれば関西弁でどやされそうな気がする。彼の関西弁は大阪寄りで、京都のおっとりした訛りより歯切れよく勢いがあるのだ。
(バレなければ良い。忍びは忍んでなんぼ)
開き直って旅館のロビーを過ぎ、部屋に何食わぬ顔で戻ろうとしていると、小走りに駆ける真白を見てしまった。
焦げ茶の長い髪が川の流れのように靡いている。
「真白様、」
呼びかけると真白は足を止めて兵庫を見た。白い面に涙が光っていてどきりとする。旅館の廊下には淡い藤色の絨毯が敷かれている。柄は源氏香の図だ。香りを聞く、香道の遊びに用いられる図柄を絨毯に採用するあたり、さすがに京都と言うところか。尤も兵庫には、どの柄が源氏物語の五十四帖の内のどれを表しているかまでは解らない。朝まで一緒にいた芸妓は佐曾羅の香が好きなどと通めいたことを言っていたが、彼女の肌から匂うのとは、別物のような気がした。
「兵庫」
前生で、麝香を漂わせていた女性が泣いている。
「どうしました、何か、」
「ううん、何でもないの。何でもないの。雪が……」
初雪は兵庫も見た。
真白の前生である、若雪を知る者の多くは、雪に彼女を見出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」
「真白様」
この謝罪は自分に対するものではない。
若雪は竜胆の花が好きだった。〝悲しんでいる君が好き〟を花言葉とする花だ。
けれど兵庫は、真白の泣き顔など見たくはない。
だがこの主君はよく泣くのだ。大抵は、人の為に。
足りないなと思う。
この場合、真白を抱き締めてやれる腕が、ここには無い。
荒太も怜も市枝もいない。
いると言えば剣護が、いることにはいるのだが。
「あー。やっぱり泣いてた」
真白が来たのと同じ方角から、緩い癖っ毛の頭を掻きながら歩いて来た剣護に、兵庫はとりあえずほっとした。
「剣護様。妹君を苛めたんですか」
「ないないない。おいでー、しろ、おいでー」
両腕を広げた剣護を避けようとする真白の両肩を、兵庫は柔らかく押し遣る。
「じゃ、あとは兄上様にお任せしますんで」
「おう。ん?…お前、化粧臭いぞ」
「はははは。大人の事情です」
荒太をして激レッドゾーンと言わしめた緑の目の男に、真白を託す。
無論、剣護がモラリストであることを見越した上でだ。
泣きながら謝る真白につけ込める程、剣護は器用な人間ではない。
荒太が見ればがうがう吠えそうな場面だが、今は真白の心情を最優先と兵庫は判断した。
自分の部屋に引っ込む直前、視界の端に映った男女は似合いの一対に見えた。
優しさと労りに満ちて。
荒ぶる風を夫にし、太陽を兄に持ち。
自分と違い、欲求の捌け口を他に求めるなど考えもしないであろう真白。
天女のような主君は、さても難儀なことだと思う。
都に舞う初雪に、美羽はまだ気付いていない。
襖を開けた男の子は、美羽が「りゅうき」と言った途端、上官に出くわした下っ端の兵士のように、びびび、と背筋を伸ばした。
「りゅうきにいちゃんが来てはるんっ?」
自分の名前を答えなかった失敗を流された美羽は、次に訊かれたことを事実として頷く。
「僕を捕まえて、ちょうえき刑にしに?」
何の話か、美羽にはさっぱり解らないが、それが竜軌の目的でないことは確かだ。
なので首を大きく横に振る。
「じゃあ、罰金一億円を取りに来たん?」
これも何の話か解らないが、美羽はやはり首を横に振った。
どうも竜軌はこの親戚らしい鱗家の子供に、大層、恐れられているようだ。
子供に好かれるよりは、怖がられるタイプに思えるので、美羽はこの事実には妙に納得してしまった。
「……お姉さん、喋りはらへんなあ」
ひとまず恐れる事態ではないらしいと知って余裕が出たのか、男の子が小首を傾げて美羽の顔を改めて見た。
春彦に逢う時には筆談は不要、と竜軌に言われたので、紙もペンも無い。
美羽は自分の唇を指差してから、両手でバツ印を作った。
「…喋れへんの?でもさっき、りゅうきって」
ややこしい。
なまじ、発声出来る単語もあるだけに。
美羽がどうしたものか悩んでいると、彼のほうから襖を開け閉めしてとことこ室内に入って来た。卓の真向かいに座り、美羽をしげしげと見てくる。上から下まで。春彦ではないが、これはこれで検分されているようで、美羽は着飾っていて良かったと思った。
「笹恒ー。いてる?ここには入らんよう言われたやろ?」
また襖が開いて、今度は女の子が顔を出した。笹恒、という名前らしい男の子よりも年長に見える。美羽を見て、目を丸くしている。
「…お客さんですか。弟が、失礼しました」
言う台詞もしっかりしているのは女の子ゆえの早熟か、躾の賜物か、両方か。
「ほら、笹恒。行くよ!」
名残惜しそうにしている弟を姉が促すと、更に後ろから、彼女より高い身長の影が射した。
「こら。こちらには、とっても大切なお客様がいらっしゃってるんだ。笹恒君も和泉ちゃんも、覗いてしまったからには、中途半端しないでちゃんとご挨拶しなさい」
千丸が、年少の子らに大人びた口調で諭した。
和泉と呼んだ女の子の背を押しながら、自分も部屋に入る。
「遅くなってすみません、美羽様」
事情を知る相手が来てくれて、美羽は安心した。
鱗笹恒、鱗和泉、と名乗った二人の子は、竜軌にとって年の離れた従姉弟にあたるらしい。美羽が二つの単語しか喋れないこと、竜軌の婚約者であることを、千丸が手際よく説明すると、彼らの美羽に対する関心はそれまでに増して高まった。
「りゅうきにいちゃん、やっぱり別嬪さんが好きやってんなあ?」
「でもうち、りゅうきおにいちゃんは一生、身軽な独身でラブライフを満喫するて思うてたのに。ああいう人はね、縛られるんを嫌がるんよねえ」
笹恒の素直な感想に対して、和泉の発言は中々、穿ったものだと美羽は思った。
竜軌を主君と仰ぐ千丸が、このような放言を怒らないだろうかと心配もしたが、彼は普段と変わらないにこにこした顔で寛いでいる。目くじらを立てるような狭量でもないのだろう。美羽の経験上、前生の記憶を持つ人間は、器が大きく精神が人より成熟していることが多い。天使のように華やぐ美少年も、中身は大木であって不思議は無い。
「竜軌様は美羽様と結婚されるお積りなんだ。と、すると、君らとも親戚になる。笹恒君も和泉ちゃんも、美羽様と仲良くして差し上げてね」
にこにこと、千丸が紡ぐ言葉も、春彦らに良い顔をされていない美羽の存在を、外堀のあたりから認めさせようという、さりげない意図から来ている。
猿並みと名高いすぐ上の兄・力丸には逆立ちしても真似出来ない芸当であり、発想だ。
尤も手回しの必要も無く、子供らは美羽に懐いた。
「ねえ、またりゅうきにいちゃん、描いて」
「美羽お姉さん、これね、うちの毬。このな、糸の色が綺麗やろ?」
いつの間にか美羽の前の卓には画用紙、クレヨンが散らばり、和泉は美しい手毬を持ち出して美羽に見せている。
美羽はごく自然体で彼らの遊び相手となっていた。探検団発足でも判るように、彼女は子供の遊戯や、子供と関わり同じ目線で遊ぶことが好きなのだ。
失声症がコミュニケーションの妨げになっていない。
千丸はそれを安堵した。
(御方様は御方様か…)
主君の伴侶とは言え、人間である以上、そこに好悪の感情は生じる。
その点、森家は揃って帰蝶贔屓だった。
幾つになっても童心を忘れぬ、蝶々のような姫。
〝日向守殿、御謀反なり!上様、並びに御方様、本能寺にて御落命の由。蘭丸様、坊丸様、力丸様も皆、……討ち死にされたとのことっ…〟
信じ難い悪夢を告げた声に紅一点、あった女性の死は、主君や兄たちの死とはまた別の痛ましさを千丸に感じさせた。
逝ってしまわれたのか、と。
早世した兄たちに代わって家督を継ぎ、武勇の誉れ高き森家を乱世で死守するには、言い尽くせぬ苦労があった。末子としての甘えなど、兄の戦死によってすぐに忘れた。忘れさせられた。
濁流を泳ぎながら、思ったものだ。
明智の裏切りさえ無ければ、自分は今、どうしていただろうと。
そして詮無いことと自嘲して笑う。
泰平の世である江戸になってさえ――――――――――。
徳川幕府開闢による安寧など詰まらなかったが、選り好みはせず、ただ家の為に生きた。
紅花染めの紬を着て毬を持つ美羽は、嘗ての帰蝶を千丸に思い起こさせた。
目の前で生きて、笑っている。
(手を伸ばしても届かぬ過去は致し方なし。が、悪夢の再来は許さぬ)
伊達も佐竹も結城も知らぬ。最上、蘆名、二階堂も。
諸将の名も旧領も石高も関係無い。
京洛に集い、織田に牙を剥く輩は総じて叩くべし。
天使のように無邪気に笑う千丸は、森家兄弟の内で最も苛烈な気性の持ち主だった。




