それぞれの駆け引き
竜軌と喋りながらも春彦は、時折、美羽に視線を投げた。
やはりやんわりとした真綿のようで、それでいて中に何が入っているか解らない、柔和な底知れなさのある瞳だった。
美羽も目を逸らさずに彼を見つめ返した。
敵意は無かったが少し挑む目つきになっていたかもしれない。
丁々発止の遣り取りを竜軌と交わした春彦は、細い息を吐いた。
今度のそれには芝居がかったものは感じられなかった。
「他にお話しすることもおます。別室に移りましょか、竜軌さん」
予想していたらしく竜軌はすぐに応じた。
「ああ。美羽、ここで待っていろ。千丸か伝兵衛を遣す。誰かに意地悪されそうになったらすぐに俺を呼べ」
「意地悪とはご挨拶やなあ、竜軌さん」
冗談を言う声ではなく真顔で竜軌が美羽に告げると、春彦が情けなさそうに眉尻を下げた。
「りゅうき…」
立ち上がる竜軌を、つい呼んでしまう。
初めて声を発した少女を春彦が見る。美羽の失声症などの事情は知っているのだろう。
「大丈夫だ」
竜軌が美羽の頬を掬い上げるように撫で、額にくちづけた。
おまけとばかりにぺろりとそこを舐められ、美羽は春彦の目を考えて赤面した。
「お前が相手でないなら、俺は一生独身を通す」
耳横に、春彦にも聴こえるくらい明瞭な声を響かせる。
美羽はこくん、と頷いた。
頷いた頭を更に優しく撫でて、竜軌は春彦と部屋から出て行った。
美羽はくちづけられ、舐められた額に手で触れた。
温もりと湿り気がまだ微かに残る。
それらの行為も宣言も、春彦に見せ、聴かせる為の意図的なものだろうが。
嘘偽りではない、竜軌の本音だ。
昨晩のことを思い出して身体が熱くなる。
竜軌は、一度始まるとずっと美羽を離してくれない。
離さないでと願っていることが、ばれているのだろうか。
眠い振りを演技でしてみせたら、問答無用で唇に被りつかれた。
小癪、と囁いて。
カタン、と襖の鳴る音がした。
見れば小さな男の子が襖を開けて美羽を見ている。
小学校に上がったばかりくらいか。
「お姉さん、だれや?」
あどけない声で小首を傾げる。
返事が出来ない美羽は、思わず答えた。
「りゅうき、」
一芯はへらへらと笑いながらお茶を飲んでいた。
同じ旅館に竜軌が宿泊していると知ったのは今朝のこと。昆も小十郎たちも忍びらも、うちの連中は一体何をやっている、と彼が腹立ちを覚えたのは仕方ないことだ。
そしてテーブルの向かいに座る男に生八つ橋を勧めた。
「美味しいですよ、どうぞ」
「食べ飽きている」
「それは残念」
口髭をたくわえた渋い美丈夫の面は、小揺るぎもしない山の峰のようだ。
この男を引き摺り出すのは些か骨だった。
気概、策謀、洞察、武威。
それらを兼ね備える先達だと一芯でも認めざるを得ない。
「まさか久姫に泣きつかれるとは思わなんだぞ」
「薫子が頑張ってくれました。女子力?」
「幼い姫に父親殺害の現場を見せた。儂の痛手を突いて満足か、政宗」
「あなたと争う積りは無い。義光伯父」
「気怠いな。直裁に申せ」
では、と一芯は左目と言葉を閃かせた。
「伊達の敵に回るな」
隻眼の竜の戦意を測るように、嘗て最上義光と呼ばれた戦国武将は双眼を険しくした。
最上五十七万石―――――実高はそれを上回り、最上百万石とまで称えられた豊かな領国は、義光の次代には引き継がれなかった。
領国の死守に一生を捧げ、戦塵と政略に塗れた男としては無念だったであろう。
だがそれを推して尚、憐みなど欠片も寄せ付けない威容を彼は保持していた。
生まれ変わっても変わらぬ資質はあるらしい。一芯は胸の奥底だけで舌を巻いた。
「儂に命令するか、童」
低く腹に響く恫喝を一芯はいなす。
「忠告だ」
「相も変わらずふてぶてしきことよな」
「そも家康会津攻めの折り、伊達が援軍要請に応じねば最上は上杉に討たれていたであろう。それを伯父上に進言したは修理太夫義康殿であられたな。良い御嫡男を持たれた」
だがこの優秀な嫡男を、義光は家中の内紛で亡くしている。
今も義光の中で燻るであろう痛恨事を一芯の言は思い出させた。一芯はそれを承知で刺激したのだ。冷静だが苛烈な気性がこのあたり、如実に出ている。
「前生の恩義を今生にて返せと?」
「そのように聴こえたのであれば」
部屋には一芯と義光の他、誰もいない。
双方の臣下は室外で牽制し合いながら待機している。
些細なきっかけで、戦端はすぐに開かれるだろう。
「儂の耳は素直でな。条件がある」
「聴こう」
「お前の右目に、もし、義康と、我が娘・駒姫の姿を捉えることがあれば儂に知らせよ」
義光の娘・駒姫の悲劇は有名だ。
豊臣秀次に見初められた為、まだ十五で正式な側室ともされていない内に、秀次の咎に巻き込まれ斬首された。尤もこの咎も、我が子を溺愛し正気を失いつつあった秀吉が仕立て上げたものとされている。
当時、政宗の耳にもその惨事は知らされた。
これでは豊臣も長くは保たぬな、と思ったものだ。
一芯は頷いた。
「相解った。約定は必ず守る」
久姫に泣きつかれたからではなく、本当はそちらが義光の真の目的だったのかもしれない。
(親心で妥協したか、義光)
政宗は母に疎まれ、慈しんでくれた父は鉄砲で射殺しなければならなかった。
決して面には出さない感傷が、一芯の中にあった。




