花洛始動
いつになく爽快な気分で目覚めた竜軌は、自分の胸に蝶が散らした痣を見て微笑んだ。
花散らしの蝶だ。
そして美羽は、悪さ疲れか、竜軌の胸に呑気にもたれて寝息を立てている。
肩を親指の爪でかり、と掻いても唇を震わせただけで起きない。
波打つ髪が肌に掛かる風情が、時季外れの藤の花房にも似て。
もう一度くらい食べても良いななどと思うが、名を呼んでみる。
「美羽」
彼女の名前を呼んで、その瞼が上がり、竜軌の姿を瞳に移す瞬間を見るのが好きだ。
言葉にしなくても、自分がいて幸せだと雄弁に伝えてくれる。
「りゅうき」
名を呼び返され、目が虹や橋のように細められる。
この洩れ出し、零れる輝きを捜し求めてやっと辿り着いてここまで来たのだ。
頬に手を宛がうと、摺り寄せて竜軌に柔らかく笑う。
義龍の墓参は済んだ。あとは鱗家に正式な顔見せをして、美羽と一緒に琵琶湖を眺める。
彼女が昔を思い出す必要は無いが、竜軌はそうやって美羽との思い出に浸りたかった。
これを荒太が聴けば耳を疑うだろう。
剣護であれば解らんでもない、と言うかもしれない。
蘭や伝兵衛であればきっと黙って微笑する。
問題は、諸将の動きだが――――――――。
「美羽。朝風呂に入ってから、飯を喰うぞ。飯が先でも良い。今日は鱗家に本物の顔見せに行く。お前を婚約者として紹介するが、どんな対応をされても気にするな」
そう声をかけると、美羽は僅かに不安そうな顔になって竜軌の顔を窺った。
美羽の指先と額に、ちゅ、とキスをする。
「俺に選ばれるのと他の奴らに選ばれるのとじゃ、前者のほうがはるかに難関だ。美羽はそれをとっくに突破してるんだから、怖がることはないんだよ」
「…だいすき」
「ああ、俺もだ。こう言って返す女もお前だけだからな」
自分でも少ししつこいかと思ったが、竜軌は念を押した。
美羽はくすくす笑い、幾分、緊張を和らげたようだった。
結界から戻っても、宿は常のごとく清閑として、仲居も竜軌たちに対して至極普通に、丁寧な態度で接した。
一晩、どこにいたのかなどと詮索することも無く。
竜軌はその対応に満足した。
美羽と内風呂に入ってから、贅の尽くされた朝食で十分に腹ごなしする。
何せ文子の実家の人間たちは、孝彰並みに喰えない。
あしらうにしろつっぱねるにしろ、それなりのエネルギーは必要なのだ。
美羽の場合は着物での訪問が良いだろうと判断し、竜軌が着付けをしてやった。
段ぼかし、紅花染めの紬にインドサリーの小花柄の帯を合わせ、可憐に装わせてみる。
美羽の持つ素直さや気立ての優しさを表すように。
だが荒太とは違い、竜軌は髪を結い上げる技術は持たない。
「どうするかな」
竜軌が独りごちると、美羽が艶のある黒髪ごと、頭を横に傾けた。
どうしたの?と言うように。
竜軌はふっ、と笑ってその頭を撫でた。
「良い良い、お前はそれで十分、可愛い」
結い上げてあざとく見られるより、自然体のほうが好ましいだろうと竜軌は判断した。
「上様。千丸です。入ってもよろしいでしょうか」
部屋の外から声が掛かる。内鍵が閉めてあるので、竜軌が開けてやった。
千丸はそのことに驚いたようで目を丸くした。
「畏れ入ります。大兄上より命を受け、鱗家へのご案内に参上したのですが」
「ああ、ご苦労」
「上様に置かれましては気付いておいででしょうか?」
「何がだ?」
「伊達政宗です」
「京にいるのだろう」
「この旅館に宿泊しております」
竜軌でさえ、一瞬、思考が止まった。
美羽に夢中で気付かなかった、とはもちろん言わない。
ただ一言、紛れもない本音を洩らす。
「―――――――…面倒臭い」
「あは!ですね。どうしますか?寝首掻きます?向こうももう、気付いてるとは思いますけど」
愛くるしい美少年が物騒なお喋りをする。
笑わぬ双眼に竜軌は短く命じた。
「捨て置け」
「はい!」
とたたた、と着物姿で寄って来た美羽に、竜軌は笑顔で恭しく手を差し出す。
芝居じみて、しかし彼女以外には決してすることのない仕草。
「では姫君。改めて拙宅へ参りましょうか」
美羽はこくん、と顎を引いた。
和んだ目が竜軌への信頼を告げていた。




