番外編・融けぬみちゆき
200p記念ストーリー第1弾。剣護と真白の前生の思い出話。
次話、震える羽はムーンライトノベルズに置いてあります。
惨めと言えば惨めな男なんだろう。
彼女が忘れた過去を、未練がましくまだ憶えている。
二人で逃げた神無月。
夫婦となって過ごした霜月。
行く末を言祝いだ師走。
僅か三月ばかりで夢は終わったけれど。
あの日々、確かに真白は――――――若雪は、俺のものだった。
雪白の肌の全て。
元亀元(1570)年、霜月の初め。
備後国・三次に住まう大叔母の庇護の元、小野太郎清隆と小野若雪は仮初めの夫婦のように暮らしていた。
実の兄妹の禁忌を、大叔母である園は理解し、清隆らの父・小野清連から匿った。
小野家次男・次郎清晴も、母である若水も彼らの逃亡を助けた。
清隆は家督相続も、小野家が有する御師職を継ぐことも放棄した。
阻むものを越えて、清隆と若雪の目には明るい先行きしか映っていなかった。
若く、恋い恋われる者同士、無理もないことだったかもしれない。
厨の高い天井にまで、白い湯気がもうもうと立ち込めている。
鍋の前に立つ若雪が、唇をきゅ、と結んで真剣な表情で煮える具材を睨んでいる。
十三歳にしては大人びた容貌の、凛とした少女がそんな表情をすると、一体、どんな難事に立ち向かっているのだろうと見る者は思う。
だが、清隆は例外だった。
何でもそつなく完璧にこなす妹が、無類の料理下手と知る為である。
清隆と夫婦となってから、若雪は、母・若水のような料理を作れるようになろうと、それまで以上に厨で努力を重ねた。
しかし。
「太郎兄。味見をしてくださいますか?」
合戦に赴く武者のような顔で、若雪が清隆に頼み、浅い小皿を手渡す。
清隆は黙ってそれを受け取り、ひと舐めする。
「………うむ」
言葉にならない味だ。
もっと言うなら、大事に想う者相手には率直に評しにくい味だった。
だが、今は夫となった兄の顔色で、若雪は察したようだった。
細い肩が、目に見えてがっくりと落ちる。
「申し訳ありませぬ……」
項垂れた拍子に、髪を束ねた組紐に挿した簪が清隆の目に入る。
銀で作られた簪は、桜の透かし彫りが施され、その花びらの上に小さな真珠の粒が一つ、ついている。清隆が結納の品の代わりとして贈ったそれを、若雪は肌身離さずつけていた。
清隆の顔が雪解けのように和む。
「いや、前より上達している」
嘘も方便だ。
白い面を上げた若雪の、黒々として濡れたような瞳と、薄く開いた花のような唇が可憐だった。
「本当だ」
嘘を重ねて笑いながら若雪の手首を掴んで引き寄せる。
細い肢体が呆気なく清隆の腕に収まる。脚と脚がもつれないように、清隆は上手く若雪を抱擁した。
「兄様はお優しいから、嘘を吐いておられるのです」
やや拗ねた口調は、相手が清隆だからこそ若雪が甘えている証拠だった。
香か香油か、艶やかな黒髪から芳しい香りがする。
「嘘ではない」
腕に閉じ込めた若雪の髪を撫でながら清隆が笑う。
若雪の為であれば、幾らでも嘘が吐けるのが我ながら不思議だ。
閉じ込めて、顔だけを上向けさせ、軽く唇を重ねる。
若雪はまだ慣れず、びくりと身体を揺らす。
清隆が薄目を開けると、みるみる紅潮する雪白の肌がある。
ふ、と思わず笑いの吐息を漏らすと、また若雪はびくりと動く。目はずっと閉じたままだ。懸命に、ひたむきに、口づけに応えようとする様がいじましい。
「若雪を得ることが出来たのは、俺の生涯で最大の幸運だ…」
恐る恐る目を開けた若雪に、清隆は偽りない本音を告げた。
園の手伝いと夕餉を終え、若雪は湯に浸かっていた。
親戚であるこの爽原の家で、清隆と暮らすようになってから、それまでは気にも留めなかった自分の体つきや顔立ちが気になるようになった。
清隆にどう思われるか、ずっと意識している。
嫁になれと言ってくれるくらいだから、嫌われていることはないだろう。
だが、清隆に多くを捨てさせる程の魅力を、自分が持っていると自惚れるのも難しい。
湯気の中で、唇に触れる。
特に肉感的でもない膨らみを、清隆は唐菓子でも食べるように味わいたがる。
(どうして?)
紅も塗っていない、色気も無いであろうものを。
身体にどう触れられたかは、思い出すだけでも赤面してのぼせそうなので、思考を止める。
当たり前だが、清隆も男だった。
湯に映る自分を見つめ返す。
(生涯で最大の幸運…)
多少、剣の腕が立つだけの自分を、そこまで言ってくれる人など、清隆くらいのものだろう。
今、若雪に出来ることは、出来る限り身の汚れを落とし、肌を磨くことだけだった。
(太郎兄の傍らが、この先ずっと、私の居場所なのだ)
それは震えるような喜びだった。
まだ怯えているな、と清隆は夜具の上に小さく畏まった若雪を見て思った。
禁欲的なほうだとは知っていたが、若雪は清隆から求められ、応じることに未だ不慣れだ。
かちこちに強張っている。
不思議なのは、若雪の自信の無さだった。
己の聡明さや容貌に無頓着で、なぜか引け目のほうを多く感じている。
父・清連は、娘の女らしい美点には目もくれなかった。
剣才に着目し、利用しようとした。
だからだろうか。
清隆は妹を哀れと感じた。
「若雪」
「…はい」
呼べばか細い声が返る。
外はまた吹雪いているのだろうか。びゅうううと風の音が響き、燭台の明かりも少し揺らめいている。
「…お前は雪より綺麗だ」
これを面と向かって言えないのが清隆だった。
彼の目は若雪ではなく、揺れる炎を見ている。
その頬が赤らんでいるのも、若雪には判らない。
若雪が柳眉を寄せて微笑む。
「無理をなさらないでください」
「無理ではない、そこまで思えばこそ、俺は垣根を越えた。お前を求めるのは、お前が欲しいからだ!誰でも良い訳ではない」
切れ長の若雪の瞳が、忙しなく瞬いている。
「太郎兄。…私と、この先も夫婦でいてくださいますか…?」
「無論だ」
「無理をしておいででは」
「ない、くどい」
それ以上、若雪がくだらないことを口走る前に、清隆は彼女を夜具に押し倒した。
鮮やかに、黒髪が広がる。
「にいさ、」
呼ぶ声さえ、上から呼吸を被せて封じる。
湯に浸かり、少しふやけた唇が昼間よりやわやわとして堪らない。
若雪は両手で清隆の胸元を頼りなく掴んでいる。
「永遠に変わらぬ。未来永劫、だ。若雪」
清隆は若雪の帯を解いて、白い小袖の下に隠れた、更に白い肌を暴いて愛おしんだ。
時折、震えながら伸びる若雪の手は、必ず握ってやった。
(……そのへんを、すっげえリアルに思い出せるのは俺が変態だからか。今だって、しろの為なら幾らでも嘘吐けるし)
今にして思えば夢のような日々だ。記憶だけでも有頂天になりそうな。
真白にあの頃の記憶は無い。それで良い。
思い出せばきっと、自分を責める。
(あいつ、莫迦だからなー)
好意に胡坐をかくことの出来ない不器用さは変わらない。
どうも寒いと思ったら雪の降りそうな空だ。
冬は昔から好きだ。
俺の大好きな雪が舞い降りる。
あいつは相変わらず雪より綺麗で。
俺はやっぱり永遠に変わらない。未来永劫、変われない。
報われなくても、若雪と真白の記憶にだけはかじりついて、何度でも生まれ変わる。
誰かに気持ち悪いとか、ストーカーとか言われたって良い。
訶梨勒の包みを抱え、剣護は緑の目を上空に据えたまま歩き出した。
もしも雪が降り出すのであれば、その瞬間を見逃したくないからだ。
舞い降りた雪が融けても、永遠に融けることのない思慕と記憶を抱え、花の都をひたすら踏みしめる。
例え荒太という夫がいても、真白の中で特別枠にいる自信とプライドが剣護にはある。
(兄ちゃんが何でもしてやっからな)
だから真白。
剣護、と呼んで笑って。




