傷はせせらぎに
眠った薫子に自分のぶんも合わせて二枚のコートを着せ掛け、一芯はまだ彼女を抱え込んだまま座っていた。
視線はどこかぼう、として定まらない。
「殿。入って良いか」
「…良いよ」
小十郎の声に口だけを動かして答える。
襖を静かに開け閉めして室内に入った小十郎は、常に無い主君の姿をそこに見た。
一芯はいつも理性を軸にして動く。
聡明な頭脳を働かせ、動きは機敏。
へらりとした笑顔を仮面にして、気性は現在の年齢不相応に怜悧。
まさに鎧を纏い、孤高に飛ぶ竜だ。
小十郎はそれを知り抜いていた。
だが今の一芯は、鎧を脱いでいる。
薫子を腕に、小十郎も視野の外にして物思う顔つきで。ただならぬ在り様だと小十郎は危惧した。
「…如何された」
跪き、一芯に問いかける。
「姫が何か?」
そう言えば、いつも一芯が掛けている青い伊達眼鏡が畳に転がっている。
裸眼であれば尚、目立つ右目を塞ぐ自らの傷痕を、一芯は指でなぞった。
「これのせいじゃなかった」
小十郎の問いをも無視して、一芯は唐突な呟きを落とす。
何の話だか解らない小十郎を置いて彼は続けた。
「薫子が、好きだと言ってくれた。やっと。十六年、僕の傍にいてくれたのは、罪悪感が理由じゃなかったんだ………」
俯き、気弱ささえ漂わせる表情で薫子を見る一芯は、小十郎であってもそうそう目にすることのないものだ。
「…殿ならば、解っていた筈だろう」
聡明な一芯ならば。小十郎はそう指摘する。
「百パーセントの自信なんて、僕にも無かったよ。小十郎。いつもどこかで、彼女が罪滅ぼしのつもりなんじゃないかと疑っていた。薫子は優しいから。それであればいっそ、罪悪感も利用してしまえば良いと」
「殿」
「最低だろ?けど、薫子は……本当に、そんな僕を選んでくれてたんだ」
政宗の故郷である置賜の、春の雪解けを小十郎は思い浮かべた。
目の前で微笑む少年の寛ぎと和らぎに。
滅多に表情を変えない小十郎が笑った。無邪気に喜ぶ主君が嬉しかったのだ。
「俺はずっと知っていた。殿は存外、小心だ」
「言うね、お前も」
一芯も破顔する。
会話の間も片時も薫子を離そうとしない一芯に、小十郎は懐かしく昔を思い出していた。
戦国乱世に稀有な主君夫婦の睦まじさを、成実とも度々話題にして、口を揃えて「あの殿が」と笑いながら語り合うこともしばしばだった。
(殿は、姫がいればお幸せなのだ)
平然と孤高に身を晒す少年が、唯一、子供のように欲しがって離さない少女。
乱世では伊達家の繁栄の為に戦塵に塗れて武功を誇った小十郎だったが、今生で励むことはもっと単純なことで良さそうだと考えた。
ただ、一芯と薫子が平穏で幸福であること。
それだけが守れれば良い。昔よりも解りやすくて、小十郎の気性には向いている。
(一命を懸けるも容易いこと)
ひた、と一芯の真剣な隻眼が小十郎に向けられる。
「この先、事態は混迷するだろう。僕が傍にいられない時は、お前と成実で必ず薫子を守れ」
「誓おう。織田、佐竹、蘆名にも姫に手出しはさせない」
日頃、殺伐とした遣り取りを交わしていても、片倉小十郎景綱と伊達藤五郎成実は政宗の両輪と称された武将たちだ。
一芯は彼らに全幅の信頼を置いている。
頼もしい返答に、唇の端を吊り上げた。左目が戦意を秘めて光る。
「では、都騒乱を捌こうか。まずは義光伯父に繋ぎを取る」
「…取れぬ時は」
「そうだな…。義康。か、谷地城主の白鳥。白鳥の娘・久姫。そのあたりを突け」
調略を淡々と命じる顔はそれまでと一変している。
「御意」
その時、薫子が身じろぎした。
「一芯…?」
まだ夢現の声で名を呼ばれた途端、一芯の顔がまたふわ、と綻んだ。
劇的な変化だ。
「薫子、起きた?」
笑って、抱き締める。
「え、寝てた?え、なになになに、一芯、もう離してよ」
「やだー、離さなーい」
「ちょ、こーじゅいるし、」
じたばたもがくが、回された腕の力は強まる一方で、薫子は目を白黒させた。
「え、えええっ?こーじゅ、一芯、酔っ払ってるの?」
「ある意味では」
小十郎はおもむろに答える。
「姫。無駄な抵抗はやめたほうが良い」
「何なのよ、人を立て籠もり犯みたいに!」
「良いね、それ。もう僕の腕に立て籠もりなよ、薫子」
「ふざけんな、わあ、顔が近いってっ!!」
「こーじゅ、薫子にキスするから出て行ってよ」
忠実な家臣をばっさり邪魔者扱いする。
「御意」
「御意るなあああああ、きゃ、ぁ………―――――――」
襖の向こうで、薫子の悲鳴が途絶えたのを確認した小十郎は、口元を手で覆って笑いを堪えた。




