花散らしの怯え
花散らしの怯え
鱗家に部屋を用意されたと言っても、泊まる訳ではない。
自由に使える部屋を提供されただけで、宿は竜軌が予約している。
だが伝兵衛に案内された部屋は、新庄邸の胡蝶の間に劣らない広さと趣を備えていた。
部屋の隅に置かれた朱塗りの衣桁の前に、事前に東京から送られた旅行用の荷物が丁寧に置かれている。
中央には野趣ありながらも品の良い木のテーブルが、低くどっしりと鎮座していた。
「こちらでしばらくお寛ぎください。荷物はあとで千丸に運ばせます。ご用の折にはいつでもお呼びくださいませ」
伝兵衛が物柔らかに告げる。
家の中でも携帯が必要とされるあたり、新庄家と似通っている。
さすがは文子の実家と言ったところか。
伝兵衛の静やかな視線が、菊花を散らした訪問着を纏う美羽に向けられる。
「御方様がお召替えされるのであれば、手伝いの者を寄越します」
美羽も以前よりは着物に馴染んだとは言え、帯などを傷めないよう円滑に脱ぐ自信はまだ無い。
「俺がいるから必要ない」
「畏まりました」
竜軌の言葉に伝兵衛が頭を下げる。
確かに竜軌は女物の和装にも慣れていて美羽の着つけをしてくれたこともあるが。
着替えを手伝われると思うだけでも、今の美羽の胸はざわめいた。
「では失礼致します」
伝兵衛が細かな金箔が下半分に漉き込まれた襖を開けて退室すると、部屋の中は急に静かになった。
落ち着いた色合いの大島紬を着た竜軌の顔が、京都に発つ前に見た幻の男性と重なる。
幻は時代劇のように髪を結っていたので、竜軌が和服を着ていると猶更に思い出されるのだ。
大好きな竜軌。
誰よりも大切な竜軌には、何度も触れられて触れ合った。深い深いところまで。
肌の熱が今でも恋しい。
けれど今は、手を繋ぐだけで精一杯。その手さえ、すぐに汗ばむのだ。
「美羽…」
竜軌が困った顔で呼ぶ。
きっと今、美羽自身がとても困った顔をしているからだ。
鼓動が速い。
「帯を解くところまでする。硬く締めてあるし、お前だと指を痛めるかもしれないから。あとは自分でしろ」
そう言われてホッとして、同時に突き放されたような寂しさを美羽は感じた。
(身勝手…)
竜軌が望むことなら何でもしてあげたいのに。
全部着替えさせてと甘えたい。
触れたい。
竜軌の目は口よりも物を言い、美羽の唇が欲しいと熱っぽく光っている。
貪りたいのを我慢しているのだ。
出逢ってからずっと、誰より我が儘で傲慢で気位の高い竜軌が、美羽に対してだけはありったけの優しさと気遣いを掻き集めて接する。
美羽はその事実に酔いながら、竜軌を振り回していることに何度目になるか知れない罪悪感を覚えた。
帯締めに触れようと近付いた竜軌の右頬に、美羽は右手の人差し指と、中指と、薬指の、微かに震える先端をつけた。
花が散るのを怯えるように。
竜軌は美羽の帯に手を置いて、黙って美羽を見つめる。
帯に広げて置かれた手が、何かを堪えるように握り締められる。
握り締められたのは竜の迸りそうな熱情。
「…だいすき。だいすき、だいすき」
涙を目に溜めて、美羽は必死に唇を動かした。
ごめんねと謝れないことがもどかしくて辛い。
言葉を補う為に強く触れることも出来なくて。
竜軌が眉を寄せ、唇の端を仄かに上げる。
「お前は優しくて可愛くて可哀そうな女だ。美羽だけは俺に何をしても良い。見合う以上のものを俺に与えられるのはお前だけだからだ。お前だけは俺が最後まで手放さない女だからだ。…だから、そう泣くな」
「…りゅうき」
「余りそんな目で見つめられると、全部脱がせたくなるだろうが」
笑い混じりの竜軌の軽口に、美羽は唇を噛んだ。
全部脱がせて良いと、今は言えない自分と竜軌の優しさに、ますます泣きたくなった。




