象る
象る
竜軌が胡蝶の間に戻ると美羽も戻っていて彼を見上げた。
黒くて長い睫の縁取る雫の張った双眸に、竜軌は両の拳を握り締めずにはいられなかった。怒りではなく、喉元まで突き上げる欲求を堪える為に。美羽は「ごめんなさい」と書いたメモ帳を竜軌に見せて水が不足した花のように萎れていた。一房だけ不揃いのぬばたまの、中央にある卵型の白い貌に竜軌は触れたかった。掌で押し潰してしまうくらいに強く。
忍びのように音を立てず、水中を掻くような緩い足取りで美羽に接近した。
脅かさないように。
美羽の前に胡坐をかいて声を紡ぐ。
「良い。俺が嫌いになったんじゃないんだろう?」
美羽が獅子舞のように激しく頭を左右に振ったので、竜軌は小さく笑った。
「その逆だな?真逆」
「りゅうき」
美羽は名を呼んで頷いた。竜軌が美羽の頤をつまむとそれだけで蝶の身にびびん、と電流が迸ったのが感じ取れた。鋭角に触れた三本指がもどかしい。
これだけ近くにありながら届かない唇。色づいているのに。
ふう、とその唇に吐息をかけてみた。
思わぬ熱波に美羽は瞠目し、酸素不足のように唇をわななかせてまたかあ、と薄赤く染まった。
竜軌は自分の体内に蠢く劣情を感じた。頤にかけた竜軌の指が震える。痺れ疼いてすぐにでも押し倒して柔肌を噛み千切りたくなる。美羽が高く細く激しく宙に放つ声を耳に溺れたくてならない。
左手を、美羽の身体の輪郭をなぞり動かした。
触れはせず、美羽が透明のシールドに守られているように肌を包む衣服から浮かせて。
愛情を象る。
握り潰してしまいそうで怖くなり、右手を美羽から遠ざけた。美羽の瞳がそれを追って動く。寂しげに。
矛盾だと責めることは竜軌には出来ない。
「お前は遠いよ」
「…りゅうき」
「到達したと思っても。まだ先があると俺に示す。果てがない…蜃気楼みたいだ」
「りゅうき、」
美羽は怯えた。竜軌に呆れられ諦められ離れられることに恐怖した。自分は確かに竜軌を煩わせてばかりいる。傷をつけさせて。
そう考えると泣きたくなった。
「りゅうき」
雨降りを予感させる濡れて揺れた声に、竜軌が目を細くした。
「莫迦だな。嫌いにはならん。このくらいのことで、冷めるほど簡単な熱じゃない。ちょっと忌々しいけどな。俺はプライドが高いから………」
口を動かして優しい声を美羽に聴かせながら、額に額をこつ、とぶつけた。
その弾みで美羽の両目から一対の雨が揺らぎ落ちた。
「待っているよ。美羽。早く来てくれ」




