青い山
青い山
その変化は突然に訪れた。
朝食を終えて美羽の頬に伸ばした竜軌の手を美羽が避けた。
手が触れそうになる時まで美羽は笑顔だった。だが竜軌の中指が到達する直前、彼女はハッとした表情に次いで赤面し、目を瞑って手を避けた。急発進して来た車から逃れるように。驚いたのは竜軌だ。
「美羽?」
しかし美羽はもっと驚いていた。
一瞬、竜軌の姿に重なって、良く似た別人の顔が見えたのだ。その男は竜軌と違い髪を時代劇のように結っていた。幻はすぐに消えたが美羽は混乱した。
「…美羽。触るぞ」
竜軌は慎重に前置きして再び手を伸ばしたが、美羽は飛びずさった。ざ、と畳と美羽の穿いたカーゴパンツが擦れて音を立てた。構わずに竜軌が一気に距離を詰めて両頬を挟むと美羽の顔はみるみる上気した。
(竜軌の手が熱い。いつもよりずっと。なんで?恥ずかしいよ)
黒い瞳は怒るでもなく心配そうに美羽を見ている。唇が寄せられたところで美羽は限界だった。竜軌を突き飛ばして胡蝶の間を出た。
部屋に舞い込んで来た美羽に、結界での鍛錬を終えて戻り、シャワーを浴びたあとだった坊丸と力丸の兄弟二人は揃って目を丸くした。
「どうされました美羽様、まだ徳川家康は出来ておりませぬが…」
飯富虎昌を彫り上げた坊丸は現在、ダーツの矢が当たった徳川家康の像を彫り進めていた。木屑が多少、散っている。坊丸は整頓好きだが物事に集中すると乱雑さえ余り気にならなくなる傾向があった。力丸は元から乱雑、即ち通常運行だった。
「りゅうき…………」
「――――――え?」
美羽の台詞に坊丸は顔を険しくし、力丸は首を思い切り傾げた。
「いや。そんな莫迦な」
「りゅうき!」
でもそうなの本当に、と美羽は坊丸に反駁を加えた。
そこで襖が開いて竜軌が現れた。もっと早くも追いつけたのだが、原因も解らないまま、美羽を追い詰めることを竜軌は危ぶんだ。
「美羽。どうした?こいつらと少し遊ぶか?」
責める響きにならないよう気をつけながら、物柔らかに竜軌が尋ねた。
美羽はこれにもかぶりを振り、また部屋を出て行ってしまった。花々の間を忙しなく飛び回る蝶のようだった。
とたたたた、と美羽の足音が遠ざかってから坊丸に尋ねる。
「あいつ、何か言っていたか」
「…はい」
「何だって?」
「上様に触られるのが、なぜだか恥ずかしくてならないと」
「どおいうことでしょうな?」
力丸は腕組みして猿並みの彼なりに精一杯、考えている。坊丸は逡巡の後、主君に訊いた。
「立ち入ったことを伺いますが上様。その、すごいところを触ろうとされたとか?」
「いや。ほっぺた。それに美羽の身体で俺が触ってないところはもう一センチ四方もない。あらゆる聖域は踏破済みなのだ、坊丸」
「委細、承知。では私の推察しますところあれですな」
「あれって?」
「恋煩いです」
「どこの馬の骨にだぶった斬ってやる、いや刺し貫いてやる、お前じゃなかろうな坊丸」
ぎら、と竜軌が睨めつける。
「落ち着かれませ。それは無論、上様にでございます」
「――――――はあ?おかしなことを言うなよ、兄上」
尻上がりに素っ頓狂な声を上げたのは、それまで大人しく会話を聴いていた力丸だった。竜軌は逆に冷静になった。
「合点が行く。二度惚れか。俺に惚れ直したか」
「然り。乙女心とはげに測り知られぬものでございますれば」
「………また聖域を踏破し直し?」
「そうなりまするな。恋の路は峻峰にも等しきものと心得ます。上様。分け入つても分け入つても青い山、です」
文学青年は生真面目な顔で、種田山頭火の有名な自由律俳句を引用した。




