春の夜の夢
春の夜の夢
〝妾は兄弟が一人も無いゆえ寂しかった。政宗のような兄上がずうっと欲しゅうてな〟
愛姫がそう言って笑いかけると、政宗の総身に細い雷が流れたように感じた。苛立ちのような気配が、彼からした。愛姫が怯えた目を向けるとそれは霧散し、政宗はいつもの優しい笑みを浮かべた。
愛姫は安堵したが胸の底には一抹の不安がわだかまった。
頬を吸われる感覚に目覚めたのは春の夜。
愛姫が伊達家に嫁いで約半年が過ぎていた。
目を開ければいつもと違う、思い詰めたような少年の顔があった。
〝政宗…?〟
まだ微睡みを引き摺る声は舌足らずになった。甘えたような響きが政宗の何を喚起したのか愛姫は知らない。それでなくても政宗は臨界にあった。育ちに育った想いと肉情の胚種が春のぼやけたような空気とともに噴き上げた。
頭の中は赤銅色に眩んでいた。
〝私はそなたの兄弟ではない。夫だ、愛姫〟
いつもの政宗ではない。愛姫は怯えるより先に戸惑った。
〝愛。愛姫〟
また頬をやんわりと吸われた。きゅ、と白小袖を纏った愛姫の身が固くなった。
〝―――――口を、吸うても良いか?〟
熱くて低い声につい問い返した。
〝なにゆえ?〟
政宗は虚を突かれたように左目を大きくしたが、右手の甲を口元にあてがい笑った。
〝愛姫のことが好きだからだ〟
丁寧に答えられて愛姫も逃げられなかった。武門の娘として顎を引いた。
〝…良いぞ〟
政宗は愛姫の両肩に手を置いた。力の籠らない少年の手が、重しのように愛姫を縫い止めた。
それは一度、軽く触れて離れ、また触れた。柔らかさは無音だった。
目を閉じている愛姫に政宗の表情は窺えない。
〝愛〟
呼ばれて目を開けると、政宗は真剣な顔だった。
〝そなたを妻として良いか〟
〝妾は政宗の妻だ。もう夫婦であろう?〟
〝祝言を挙げただけだ〟
愛姫は無意識に左手の親指の爪の下を人差し指の爪で掻いていた。彼女が焦った時の癖だった。政宗が何を要求しているのかが愛姫にはようやく判ったのだ。本来であれば否も応もないことを、あえて政宗は尋ねている。愛姫を思い遣り、そして覚悟を促す為に。この場合、拒むほうが異常だった。
〝愛姫…〟
〝妾は。妾は、政宗が好きだ…〟
必要最小限の言葉を愛姫は絞り出した。
政宗の顔が和んだ。彼も緊張していたのだと愛姫は悟った。
優しく抱き寄せられて、再び滑らかな夜具に横たえられた。
〝私に委ねてくれ、愛姫〟
〝――――うん、〟
愛姫の心の臓は荒ぶる最上川のようだった。
肌に触れて来る少年の指を感じながら、桜はもう咲いただろうか、なるべく花の命が長ければ良いと思った。
花びらが地に降る音さえ、今なら聴こえそうな気がした。
ただただ、降りしきる。
春の夜の夢のように。




