忍び草は一度だけ
忍び草は一度だけ
生まれ変わり、という事象に関して一つの疑問が発生する。
超人的なものに限らず、前生に有していた能力を今生まで保持し発揮出来得るか。
例えばここに一人の男がいる。
彼はこの春、部下との不倫がばれて妻に三下り半を突きつけられ、更にそれが会社にばれて上層部に疎んじられ子会社に出向させられた。そして不案内な土地で賃貸アパートに住み、妻への慰謝料と趣味で収集しているガラス器代金の返済に追われる日々を過ごしている。好い歳して入れ揚げていた部下には梅雨時の晴れ間のような眩しい笑顔で別れを告げられた。
そこに日本史上最長の幕府を開闢させた戦国武将の面影はない。
会社の慰安旅行で箱根の日光東照宮に行った時も彼の記憶に訴えるものは何も無く、「家康ってすごかったんだなあ。俺なんかとは人間の出来がちがわあな」くらいにしか思わなかった。有名な眠り猫の彫刻を見て、「結構、可愛いのも作っちゃう男だったんだ。意外」とも考えたがそれは誤りであり、眠り猫を彫り上げたのは左甚五郎と伝えられている。家康を祀る東照宮の彫刻を、家康作だと考えるあたり、歴史にはずぶの素人で興味も無いことが丸わかりである。
嘗て徳川四天王とも徳川三人衆とも呼ばれた男の内二人は前生の記憶を持ち、今でも主君の変わり様を嘆きつつ密かに見守っている。
男はたまの休日も出歩くでなくアダルトな画像サイトをパソコンで見ながら落花生をぽりぽり食べて缶ビールをちびちび飲む。ごくごくと威勢よくは行かない。勿体無いからだ。ちびちびと飲み、だら~、と寝そべってたまにたるんだお腹を掻く。時々携帯に視線を遣っては、別れた女から連絡が来ないだろうかと儚くも楽観的過ぎる思いを頭によぎらせている。
前生で偉人・傑人だった人間が今生でもそうであるとは限らない。その逆もまた然りだ。




