まだこれから
まだこれから
真白と剣護の実家である、隣り合って立つ門倉家の向かい、坂江崎家では、今年で小学六年生になる長男の碧がリビングにある茶色い革張りのソファに座り、沈痛に両手で顔を覆っていた。
今日は母である美里は、五歳になる碧の弟の通う幼稚園のママ友とランチに出かけている。普段、家事の一切を妻に任せ切りにしている一磨は、快く息子二人の子守りを引き受けた。昼は店屋物かコンビニ弁当の予定だ。碧もその弟の葵も普段は忙しくて構ってもらえない父親がのんびりリビングに構えているだけで嬉しいらしく、話しかけたりまとわりついたりしていたが、途中から碧の様子が一変した。葵は一磨の膝の上で兄を大きな瞳で見つめていた。
「どうした、碧?」
碧を心配した一磨が声をかけた。
「パパ。まだぼやけてしか見えないんだけど、真白お姉ちゃんが、姉上が、荒太お兄ちゃんに苛められてる。は、裸で」
碧の前生は真白、剣護、怜らの末の弟だった。元服するよりも前に、凶刃に斃れた。
その記憶を思い出した彼は同様に死んだ剣護や怜ほどに覚醒による悪夢には苦しまなかった。前生の享年が幼過ぎたのがこの場合は幸運だった。そして今生において、碧は「視る」タイプの巫であると判明した。だがまだ年少の為、竜軌と違って自在に力を扱えない。
「やめなさい、碧。人のプライベートを覗いてはいけないと言ってるだろう?真白ちゃんが知ったら、きっとすごく恥ずかしがって悲しむよ。そんなのは碧だって嫌だろう」
一磨は真白と荒太の前生で縁の深かった人間の生まれ変わりだ。石見銀山に近接した戦国武将で温湯城主だった小笠原氏の血縁で、名を小笠原元枝と言った。武勇に秀で水山と言う神器を所有する。そんな彼の今生の息子に、真白たちの弟が生まれついたのは奇縁であった。磊落な人柄で真白たちの信頼も厚い一磨だが、息子の特異能力に関してはやや頭を悩ませていた。望めば何でも見られるということは、邪な思惑を持つ男にとっては願ったり叶ったりの力だ。女風呂や更衣室が碧には苦も無く拝めてしまうことになる。恐ろしい力だと一磨は慄いてしまう。羨ましいとまでは思わない。ただ息子の人格形成において害を及ぼすのではないかと心配だった。現在のところ、素直で無垢な性格の碧は父親の言い付けを守り、滅多なことで力を行使しないようにしている。だが前生から真白にひどく懐いていた彼は、姉が今どう過ごしているかを知りたがった。
知りたがり、本日のように碧がもう少し年を重ね明瞭に映像が見えていれば鼻血を出してしまったかもしれない映像に出くわすこともある。
「太郎兄や次郎兄に言って、姉上を荒太お兄ちゃんから返してもらえないかな。そして僕が姉上と結婚する」
真面目な顔でそう言って来るのだから一磨は頭が痛かった。全然、会話の意味が解っていない膝の葵を抱え直す。
(…仲良きことは美しいが小野家はシスコンとブラコンで埋められている)
何の因縁だろうか。
「碧。真白ちゃんは荒太君のことが大好きなんだ。剣護君や怜君が何と言っても、荒太君とは別れないよ」
「苛められて嫌がってたのに?」
「真白ちゃんは辛いとは思ってないよ。…荒太君も、苛めてたのとは少し違うだろうし」
努めて宥めるように息子に語りかける。
「荒太お兄ちゃんは楽しそうだったもん!」
どストレートに切り込んで来る碧に、一磨は額を人差し指で掻いた。休日の午前中、幼い息子との会話がこれかあ、と思いながら。
「二人共、好き合ってるならそれで良いんじゃないかな」
「僕は嫌だ」
「碧」
「姉上を、もっと大事にしてくれなきゃやだ。太郎兄か次郎兄と結婚すれば良かったのに」
碧は至って真面目な顔で、一般のモラルを軽々と超えた発言をする。
一磨は唇にカッターで細かく切った紙片のような笑みを乗せて、黙って葵の頭をなぜた。
(お前たちは、まだこれからなんだから)
過去に囚われ過ぎるなよ、という言葉は胸に仕舞った。




