残香
残香
朝食のあと、美羽が浴衣から洋服に着替えて胡蝶の間を出てから戻って来ない。
竜軌は落ち着かなかった。若木のような身体が傍に、腕の中に収まっていないとそわそわして次第に苛立って来る。探しに行こうと腰を浮かせかけた時、襖の外から「りゅうき!」と元気の良い声が聴こえ、竜軌の顔は知らず緩んだ。
部屋に入って来た美羽の腕にはよいしょ、とばかりに菊花の山があった。大菊から古典菊、小菊まで種々ある。色も白、赤紫、黄、朱と多彩だ。
美羽は座る竜軌にそれをばさ、と手渡すとメモ帳にペンを走らせて見せた。
〝竜軌にお見舞い!文子さんが、お庭のどれでも切って良いって言ってくれたの〟
にこにこと無邪気な笑顔が菊の気高い香りの向こうにある。お見舞いと言っても足の傷はもう治りつつあるのだが、寒い中、美羽が頑張って切り、集めてくれたのだと思うとその気持ちだけでも竜軌の心は和んだ。くちゅ、とくしゃみをしているところが猶更いじましい。
「…美濃菊があるな。今時分、花開いたか」
〝美濃菊?〟
「この八重咲きの、日輪のようなオレンジ色のだ」
〝好き?〟
竜軌が美羽を深い色の瞳で見た。
「好きだよ」
美羽はきょと、とした。竜軌は花のことを言っているのだろうに、自分が告白されたような気がしたからだ。
「奥州菊も見事に咲いているな。ふん」
竜軌がいじったのは生クリームのような純白の塊に、リボンのように花弁がひとひら、ひとひら垂れている一輪だった。
〝好き?〟
「別に」
美濃菊に比べると非常にドライで素っ気無い口調だった。だが次の口調は打って変わって地中海気候のように晴れ渡っていた。
「ありがとう、美羽。あとで蘭に活けさせよう」
〝じゃあ水に浸けてくるわね〟
「いや、菊は生命力が強い―――――美羽、おいで」
竜軌は菊の花束を蘇芳の卓上に置くと美羽の身を寄せた。
くく、と笑う。
「残香…。菊の香りが移ったな、美羽。俺はこっちのほうが良い」
美羽の着ている美濃菊と同じ色のマリンパーカーをつまみながら言う。
「美羽。お前の他に俺の子は産ませない。お前が産まないならそれはそれで良い。要らん気を回すなよ。宝はお前一人、あれば良い」
美羽はしばらくぽかんと竜軌の顔を見ていたが、くしゃりと顔を歪めた。
「りゅうき、」
ごしごしと目をこする。
「今生であればこそ言ってやれる台詞だ。時代とは言え…、昔はお前に随分と辛い思いをさせた」
美羽は首を左右に振った。
竜軌が自分に対して砂糖菓子のように甘いのは、昔の負い目を憶えていてすまなく思っているからだ。もうとっくに時効であるような事柄を律儀に償おうとする。他人にもそうだが自分にも厳しい性分だからだ。
(私がこの竜を独り占め)
陶然としてしまう。
「今生では俺はお前を独り占め出来る。なあ、美羽?」
ぎゅうと互いを抱き合う、どちらがどちらを縛るとも知れない。どちらも縛りはせずただ熱に添っているだけというのが真実に近しいのかもしれない。




