月の明るさ
月の明るさ
奇妙丸が生まれてから、信長はより一層、帰蝶に執心した。これは周囲の予想に反することであった。おおよその者が、信長は見事、嫡男を産んだ吉乃のいる生駒邸に足繁く通うであろう、または吉乃を清州城に呼び寄せるのではないかと考えていた。
だが信長は政務・軍事以外の私的な時間を、帰蝶を傍らに置いて費やそうとした。正室の悋気を危ぶんでのご機嫌取りに見えないのは、信長から逃げようとする帰蝶を、信長が執拗に追い回した為である。殊に夜は閨から外に逃すまいとした。これで政を疎かにしていれば暗愚の将との烙印を押されるのは必定だったであろうが、信長は執務に抜かりなかった。忍び、間者を方々に放ち軍略にも常に気を配っていた。そうして捻出した僅かな時間を、蝶を追い、腕に閉じ込めるのに費やした。吉乃を慮る声も家中にはあったが、帰蝶は生家が吉乃よりはるかに有力な大名家であるゆえ、信長もそれなりにおもねらずにはいられないのだ、と自らを得心させる人間が多かった。信長は余人の思惑を捨て置いた。
〝帰蝶、待て〟
金糸の豪奢な縫い取りをした打掛の袖を信長が捕らえる。帰蝶から立ち上る芳香はいつも信長を酔わせる。弘治二(1556)年の春、桜の蕾が咲きほころび、清州城内をもたおやかに彩ろうとしていた。
帰蝶は構わずずる、と重い打掛を脱ぎ捨て、小袖姿で広縁を歩き去ろうとする。追いすがる信長は鶸色の小袖から白く伸びる腕を絡めるように掴み捕らえ、引き寄せた。帰蝶の白い素足がたたらを踏んだ。
〝帰蝶〟
〝吉乃の元に参れ、信長〟
〝参らぬ〟
数えきれないくらいにこの遣り取りは繰り返されていた。
〝信長の子を、命を懸けて産んだ女子だ。大事にせねばならぬ〟
〝帰蝶。それは真意か〟
〝真意だ――――――判らぬほどに、信長はうつけか!〟
〝蝶に目が眩んでおるゆえな〟
〝戯言を〟
〝今宵も参る。支度を調えて待てよ〟
帰蝶の耳元で囁くと、近習の目も憚らずに唇を吸った。
〝御方様は病で臥せっておられまする〟
宣言通り、夜、帰蝶の居室を訪れた信長に、美濃より帰蝶に従って来た古参の侍女が両手をついて述べた。帰蝶の逃亡手段だった。
〝病か。熱があるのか〟
〝しかとは判りませぬが〟
信長の眼光に、白髪が多く頭を覆う侍女は枯山水の庭に据えられた石のように、動じることなく答えた。
〝では俺が直に確かめる〟
〝殿様っ〟
侍女の制止も聴かず、信長は奥の、帰蝶の臥所へと足を進めた。
襖をぱん、と開けると白い小袖の胸元を掻き抱く様子で、帰蝶が夜具に半身を起こして信長を凝視していた。柳眉を寄せ肩を縮めている。信長は大股で帰蝶の傍まで歩むと、額に手を置いた。信長の大きな手が月のように仄白い額を包むと、帰蝶の身体が揺れた。
〝熱はないな。寧ろ瓜のようにひやりとして、手に快い〟
〝信長…〟
〝なぜそう俺を避ける、帰蝶。嫌いになったか。俺はお前に嫌われたか〟
直截な物言いと悲しげな信長の目に帰蝶が怯んだ。
〝違う、左様なことは〟
〝ならば〟
帰蝶の身を押し倒す。燭台の灯り一つ、揺らめいていれば事足りる。そうでなくても月の明るい晩だ。
〝信長は、なぜかように私を、〟
〝なぜとは?帰蝶。愛いことを申す〟
信長が笑った。
〝武家の男女は、閨でも裸にならぬものであろう。私は乳母からそう教わった〟
〝そうだな〟
言いつつ信長は帰蝶の襟をぐいと押し広げた。
〝か、かようにはせぬと。互いに片袖は通したまま、万一の時に備えて契るが習いではないのか〟
信長は自らも諸肌を脱いだ。
〝お前以外の女の時にはそうしている〟
平然と答えた信長に、帰蝶は言葉を一時、失くした。
〝――――――私を見くびっているのか。武家の女に値せぬと?〟
〝そうではない。俺は帰蝶には命懸けだからだ。命懸けで惚れておる。真に解らぬ訳でもあるまいに〟
信長の熱が帰蝶を潰さないように降りて来る。うなじから腿の内側から至る所を愛撫する。
〝信長の子も産めぬのに〟
〝帰蝶〟
信長はそれ以上を言わさなかった。
月の明るさに任せて帰蝶を溶かした。




