奇妙
奇妙
弘治元(1555)年、帰蝶に手枕していた信長に室外から声をかける者があった。
長い睫が帰蝶の頬に落とす影を眺めていた信長は気分を害した。
清州城内、信長が帰蝶を侍らせる寝所に水を差すには豪胆でなければ務まらない。
〝勝三郎か〟
信長の乳兄弟、池田恒興である。
〝は、殿。御無礼をば〟
〝用向きを申せ〟
帰蝶を起こさぬよう、声を控えて短く促した。
〝類、いえ、吉乃どの、生駒邸にて男児、産み参らせる由にござります〟
〝―――――左様か〟
〝おめでとう存じまする〟
感極まった声に、信長は眉間に皺を刻む。帰蝶は白い小袖の襟元を乱したまま、まだ寝ている。
〝大きな声を出すな、帰蝶が起きる。勝三、お前、一足先に生駒邸にゆけ〟
〝は?殿は参られませぬのか〟
〝帰蝶に腕を預けておるゆえ今は動けぬ。昧爽ののちにゆるりと出向くわ〟
〝さ、されど―――――〟
〝急かすな。事は慶事。逃げはせぬ。で、あろう?〟
〝…は。承知仕りました〟
不服であろうな、と信長は乳兄弟の胸の内を想っていた。
(…男児か)
織田家嫡子の誕生は言祝ぐべきことではある。言祝ぐべき、と他人行儀にしか捉えられないのは、この「慶事」による帰蝶の心痛を量るがゆえだ。帰蝶との間の嫡子であれば、手放しで喜び、帰蝶を労えたであろうにと思う自分がいる。
自分の手枕で安らぎ眠る女に、目覚めて告げるのは酷な現実だった。
(帰蝶――――――――)
赤ん坊とはぐにゃぐにゃとして何とも頼りない生き物だった。
生駒邸で信長は我が子と体面した。
(皺だらけの猿のようだ。真に俺の子か、これが)
小さな紅葉の手を右手人差し指と親指で揉み解しながら不謹慎な感想を抱く。実際、己の子には相違あるまいと思う。吉乃を抱いた時期とも計算が合うし、何より信長に従順な女である吉乃は不貞を働くような真似はしない。
〝吉乃。大義であった〟
信長は良い働きをした家来に対するように、温和な声を出してみせた。
床に伏して信長と自分が産み落とした赤子の様子を見守っていた吉乃が、やわやわと儚げに微笑んだ。
〝三郎様、名は何と致しましょう〟
寄り掛かるような声音で吉乃が尋ねて来る。
三郎は吉乃が信長と出逢ったころの、信長の通称だ。
〝……奇妙〟
〝はい?〟
〝奇妙丸とする。佳き名であろう?〟
〝―――――はい〟
万事に従順な女は頷いた。
信長が我が子に名付けてくれる、それだけで吉乃には十分だったのだ。
幸いにも信長の内心を知る由もない。
(奇妙。奇妙なものよ。我が子と言うても、さして情が湧かぬのは。吉乃は喜び泣いておるに。帰蝶が悲しみ、泣いておるかと思うと…。俺は情の傾け方が、人より極端なのやも知れぬ)
信長の眼裏には、吉乃が男子を生んだと告げた時の帰蝶の、顔を強張らせながらも祝着至極に存じますると一礼した在り様が焼き付いていた。




