この先の道
この先の道
火曜日の午後、鬼小路聖良は緊張していた。
晴れて婚約者となった佐野雪人に伴われ、初めて新庄邸を訪れた彼女は、新庄孝彰、文子夫妻に挨拶した。二人共、温雅な雰囲気で聖良と雪人の縁を祝福してくれた。聖良の両親には既に雪人が訪問と挨拶を済ませてある。雪人は聖良の父に「お嬢さんをください」と正座して深々と頭を下げたのだ。華やかな美貌の青年の古式ゆかしく誠意ある振る舞いに母親は感動し、政治家・新庄孝彰との結びつきだけを目当てにこの見合いの成功を願っていた金の亡者たる父も、「海老が鯛を釣って来てくれた」などと無神経ながら彼なりに雪人を見込んだコメントを発した。しかしそれに対して雪人は、真面目な顔を崩さずに「海老は私にて。聖良さんこそが鯛です」と言ってくれた。聖良はちょっと涙ぐみそうになった。雪人の両親には後日挨拶に行く予定だ。
そして今から雪人は、新庄孝彰の息子とその婚約者に聖良を引き合わせると言う。
その名も風流な胡蝶の間の襖を雪人が一声、かけたのちに開けた。襖の向こうから応じた声は低い美声だった。
「失礼致します。竜軌様、美羽様、こちらが鬼小路聖良さん。私の婚約者です」
「初めまして。新庄竜軌と言います。佐野さんにはいつもお世話になっています」
竜軌を見た時、圧するオーラ、という単語が聖良の頭に浮かんだ。
特に権高に振る舞う訳でもなく寧ろ殊勝に、丁寧な物腰で聖良に名乗ったのに、なぜか聖良は上に立つ者と相対している気分になった。「謁見」している気分に。ミリタリー系の服装に黒い髪は長め、耳にはピアスホールが空いて何と言っても赤いエクステが印象的な青年だが、荒れた空気は微塵も無い。穏やかだった。精悍な顔立ちに滲む微笑には、聖良を歓迎しようとする意図が見える。そこには雪人への信頼と情があるように思えた。
「初めまして。鬼小路聖良と申します。以後、よろしくお願い致します」
聖良もしとやかに頭を下げた。部屋に入ってから雪人が自然に竜軌の前に正座したので、聖良もそれに倣っている。
「ほら、美羽。お前もちゃんと御挨拶しなさい」
竜軌が彼の背後に声をかけたので、聖良は初めて広い背中に誰かが隠れていると知った。
ぴょこ、と顔の上半分を竜軌の右腕の横から覗かせたのは、それだけでも綺麗な顔立ちと判る少女だった。
澄んだ目で、興味深そうに聖良を見ている。きょろきょろ、きょろきょろ、と黒い眼球が忙しく聖良の上を動く。はみ出た髪は艶やかに波打っている。
彼女は、そろ~、と聖良に右手を差し出して来た。竜軌が苦笑する。
「握手してやってくださいますか。これが俺の婚約者の新庄美羽です。事情あって失語症を患い、少しの単語しか喋れません」
竜軌の台詞に聖良は頷く。そのことは雪人から事前に聴かされていた。「りゅうき」としか言えないのだと。
聖良が美羽の手を慎重に握り返すと、美羽は竜軌の後ろから顔を全部出して、にぱっ、と笑った。
(何これ、可愛い)
同性と言えば容姿を競う相手くらいにしか考えて来なかった聖良にとって、美羽の無心でいたずらっ子のような笑顔はいたく母性本能をくすぐられ自分でも驚いてしまった。
「美羽。そのままでは失礼だぞ。出て来なさい」
竜軌が注意するが、声はいかにも優しかった。
美羽は彼の声に素直に従い、聖良の前に全貌を現した。竜軌と似たようなミリタリー系の、黒を基調とした格好に色気は無く、やはりいたずらっ子のようだ。竜軌とペアルックにも見える。竜軌の背中から出て来た美羽は、聖良の前に端座して、雪人が聖良の父にしたように深々と頭を下げた。畳には三つ指をついている。ぬばたまの髪が藺草に降りた。
口が利けない少女の精一杯と察せられた謝辞の行為に、聖良もまた同じように三つ指をつき、深く頭を下げた。
「聖良です。よろしくお願いします。美羽さん」
二人は同時に顔を上げた。
美羽は子供のように無邪気に、嬉しそうに笑った。
競争心や警戒心などがまるでない。聖良の知る女たちの顔と違う。
(…不思議)
これまでの聖良の世界はきつくて汚くてぎりぎりで追い立てられるような色合いに占められて来た。それが現実だと聖良自身が認識して生きて来た。いつも苦しかった。
だが雪人が聖良に見せる世界は優しい。
優しくて穏やかで、傷みを知りつつ流してくれるようで。
懐かしい光が灯るようだ。
眩しい光輝ではなく、幼いころに飽かず眺めていたおはじきのようにまろやかな光が。




