ローズマリー
ローズマリー
日曜の朝、薫子は佐原家の庭で、剪定鋏を手にローズマリーの細い枝を切っていた。
顔を近付けると、青紫の小花と尖った葉から独特の芳香が鼻の周りを泳ぐ。
「………」
チョン、と切る手を止め、左頬に手を置く。そこに、一芯にキスされたのだ。
長い付き合いだが一芯からそのように触れられたのは初めてだった。薫子は喜び、怯え、混乱した。最終的には仄明るく込み上げるような歓喜が強く残り得た。勝者として。
通学に使う紺色のコートを私服の上から着て、ローズマリーの小さな繁みにうずくまっていた薫子に声がかかった。
「薫子」
ドキン、と心臓が喋った。悲鳴がちに。
一芯がいつもと変わらぬ立ち姿で庭に佇み薫子を見ていた。
綺麗めの、濃紺のジャケットを着崩している。一芯は服装に気を遣う男子だ。
「一芯。ローズマリー、貰ってるわよ」
平生の声を心がける。
「うん、良いよ」
言いながら一芯は歩み寄り、薫子の隣に同じようにしゃがんだ。
外気の冷たさと関係なく、薫子は熱い。寒風が吹いているのに、一芯がすぐ横にいるからだ。
「ねえ、薫子。京都って興味ある?」
「京都?」
思ってもいなかった台詞に、薫子は不意を突かれた。
「え、どっちかって言えば好きだけど」
大抵の女の子には京都と、京都でのお買い物に興味があるだろう。
「今度さ、お師匠さんのお師匠さんへのお使いに、行くことになりそうでね」
「学校は?」
「休むしかないね。事情が事情だ、父さんたちも許可してくれるよ」
京都。
伊達政宗、その正室であった愛姫にも、思い入れがある土地。
「…考えたんだけど。薫子も、一緒に来ない?」
「、一芯と?」
二人で?とは続けられなかった。
「うん」
「学校、休めないわ」
「向こうではお師匠さん方のお手伝いもすることになるだろう。和装や舞いに詳しい薫子がいてくれると助かる。着付けも出来るだろ?御両親には、僕の親かお師匠さんから話してもらうよ。あとは薫子の気持ち一つ」
薫子は顔の横に一芯の呼吸を感じつつ右手に束ね持ったローズマリーの、ザラザラチクチクした手触りに意識を傾けた。傾けながら、考えた。
「どうしてあたしなのよ」
「こっちが訊きたい。どうして今更その質問なの、薫子?」
「だ、だって。急じゃない、色々と」
「十六年一緒にいて、ほっぺにチューが急?」
「だけじゃなく旅行とかがだっ!!」
紅潮した薫子にくす、と一芯が笑む。ノンフレームの奥の左目はいたずらめいている。
「おっかない?大人の男女の、秘め事の記憶に触れそうで」
「ふざけないでよ」
「そういう時の薫子って滅茶苦茶可愛いんだけど、自覚ないんだろうね」
「ふざけんな」
「この間は、左頬だった」
薫子が口を噤む。
「今は?薫子。今なら、右頬?それとも、」
「一芯」
「それとも」
香り高い、ローズマリーの繁みの前で、少女は追い詰められた。
一芯は、欲しいものは手に入れる。
例えばそれは柔らかく、ふっくらした唇など。
薫子は一芯から逃れる為、一芯の胸元に飛び込みしがみついた。
「…薫子」
「や、やだ。一芯。好きだけど、い、急がせないで、お願いだから」
「…右頬なら、良い?」
「う、うん、」
薫子は触れて質が良いと判るジャケットに顔を埋めたまま頷いた。
「顔、上向けて」
「………」
一芯の声に従った薫子の顔は、この世のどんな小動物よりも可愛いとしか一芯には思えなかった。微かに震える唇に欲情を刺激されるが、まだ触れてもならないと少女は言う。
一芯は薫子の右頬にそ、と唇を当てた。それから、唇の、横にずらしたところにも、唇を当てると、薫子の身体は大仰なほどにびくりと揺れた。彼女は怒りはせず、ただ真っ赤な顔を俯けて一芯の顎の下に栗色の頭を寄せた。
ローズマリーが香る。




