奇跡の刹那
奇跡の刹那
竜軌はさっさとガラス戸を閉め、簾を下すと暖房のスイッチをリモコンで入れた。
美羽は正座したまま身じろぎしない。竜笛の余情に捕らわれている。
「美羽。…気に入らなかったか?久し振りに吹いたから、だいぶひどい音だった。お前の誕生日を祝うには不足だったかもしれん」
すまなそうに苦笑しながら、竜軌が美羽の正面に腰を下ろした。美羽はかぶりを振った。
「だいすき、」
か細く言う。空気が少なくて胸がつかえたようだ。それでも言葉を惜しんでは伝わらない。
「そう言ってくれるか。ありがとう」
美羽は右手を伸ばして竜軌の頬に触れた。瞳が交わる。美羽の物言いたげな目を竜軌の澄んだ黒が受け止める。夜の空。
「りゅうき。…た、が、だい、すき。あ、あ、い…て、る」
「美羽」
「あ、し…て。る」
「美羽。解った。知っている。だが、お前が伝えようと努力してくれることに感謝する。以心伝心などは夢物語だ。言われなければ、解らない。心が満ちない。お前は怠けずにそれをしようとしてくれる。俺が惚れただけのことはある」
(良かった。良かった)
賢い竜軌は言の葉の大切さを知り抜いている。美羽の尽力を正当に評価して称えてくれる。
「持ってみるか」
竜笛を差し出され、美羽はそれを手に取った。予想より重い。三十センチ定規より長い。竜軌が吹いていた時にはほっそりした楽器に見えたのに。
「鉛が入っているしな」
美羽の驚きを察したように竜軌が言う。
鉛。弾丸を連想させる物騒な響きがこの端整な管に内蔵されているのか。
「左側が軽いと持ちにくいからだ。あとは、音を良くするとか言う」
竜軌の見様見真似で吹口に唇をあてがってみる。
唇の熱の残滓を食べている気持ちになる。頬が熱くなった。
息を吹き込むが音は出ない。
「そう簡単なものじゃない。美羽が吹きたいのなら、おいおい教えてやる」
美羽は竜軌を見て頷いた。
竜の声が出せるようになりたい。竜軌に、教えて欲しい。
「お前は昔も俺の笛を好んだ」
寝床の中で竜軌が語る。
「下手くそなんだがな。笛も、舞いも、…喜んでくれた。当時の嗜みだったが、学んでいて良かったと思った」
美羽に記憶はないがそれはそうに違いないと思った。竜軌が自分の為に笛を吹き、舞いを舞ってくれるのだ。誇り高い男が自分の為だけに。竜を独占する幸福に酔うのだ。
「雅楽では竜笛が初めの音となる。斬り込み隊長というか。その働き次第で全体が左右される。主旋律ではないが重要なポジションだ」
竜軌の低い声はどんな知識も飛び出す魔法のシルクハットみたいだった。この声に包まれ、守られて眠りにいざなわれる。
「りゅうき」
呟きに意味はなかった。ただ幸せと感じるまま声を出した。
「何だ?」
頑健な胸板に顔を押し付ける。
「だいすき」
ありがとう、の発声練習もしなくてはと美羽は思った。
「俺も大好きだ。美羽。どういたしまして」
竜軌が頬と頭と髪の毛を撫でてくれる。
変なの、と美羽は首をひねる。
以心伝心は夢物語な筈なのに、なぜだか通じる瞬間がある。
奇跡の刹那。




