海のように
海のように
息がつかえたかのように苦しくなった。
美羽は竜軌に頬を撫でられて安心し、凝固した。
頬を撫でるだけで終わり。
美羽の内に理不尽な憤りが湧いた。竜軌は美羽の望みに従っているだけなのに。なぜ欲しがらないのかと、強く責める思いがある。何て手前勝手な怒り、欲望。
なぜか今、無性に竜軌に抱かれたかった。
秀比呂の名に、古都の名に、美羽を追い立てる何かがあった。
「美羽?」
美羽の思惑を知らず呼ぶ竜軌が聖人に見える。
(恥知らずだわ)
醜い内面を悟られる前に離れなくては。
しかし右手で顔を隠すようにして逃げようとしたサーモンピンクの少女を、竜軌はすかさず捕らえた。右肘を固定され、それでも美羽は顔を見られまいとした。竜軌は美羽を愛してくれているが、それでも美羽は、ほんの欠片ほども竜軌に軽蔑されたりはしたくなかった。
「…どうした。なぜ逃げようとした?」
竜軌の顔は穏やかで怒っていなかった。純粋に美羽の行動を疑問に感じているようだ。
掴まれた右肘が辛い。
接触するとそこから想いが溢れそうで美羽は唇を噛んで畳を見た。黒曜石の瞳を見ることは致命的になる。
(いや)
腕を振り解こうとしても身をよじっても、竜軌は逃亡を許してはくれない。醜い生き物になる前に遠く離れたいのに。綺麗な自分だけを見て欲しい。
「美羽?何を怯えている。何が怖い。言ってみろ、一緒に考えてやるから」
竜軌は落ち着いた声音で少女を促した。彼女の中に煩悶が芽生えているらしいことは判る。自分を厭っての混乱ではない。
「りゅうき、」
美羽の目に涙が盛り上がる。髪に挿した簪の、水晶に似ていると竜軌は思った。
「ん?」
撫で甘やかす声が自然に出る。
美羽は右肘にあった竜軌の手に震える左手を添え、彼の人差し指の第二関節と中指の第二関節に唇を当て滑らせた。湿った舌先も。滑らせるのにつれ涙が竜軌の右手の甲を打った。
それ以上は動けず、呼べず、美羽はポロポロと涙をこぼしてしゃくり上げた。
(恥ずかしい。恥ずかしい)
きっと聡い竜軌にはばれてしまった。
理性に従えない幼稚な美羽の欲情が暴かれ、彼の軽蔑の対象となるのだ。竜軌の吐いた溜め息が聴こえ、美羽は暗闇の底に落ちた気分だった。また涙が降る。
「我慢出来そうにないんだが……美羽」
台詞と声は美羽が予期したものと違った。
「着飾って、うなじを出したお前が、泣きながら俺の指をついばむ。これで肌を合わせるなと?生きてる意味がない。お前を愛してるんだぞ、俺は」
美羽がまだ雫がこぼれている大きな瞳で竜軌を見て、ひく、と喉を鳴らす。
出そうになっていた鼻水を、竜軌が親指で拭き取った。
「りゅうき、」
呼んでからまたひく、と喉を鳴らす。
「良いか?お前は、思い遣りも弁えもある女だ。俺はそれが足りないから、約束を破ってお前に手を出さずにいられない。許せ、莫迦ですまない」
真摯な顔と声で竜軌は演じている。色狂いをここで演じることで、美羽の心の負担を軽くしようとしている。悪役は俺だよと。
それを証明するように、先んじてキスして来る。舌に舌を摺り寄せ絡めて絡めて、美羽のワンピースのボタンを外していく。
美羽は悔しくて泣いた。
まだ子供な自分。
竜軌に気遣わせる自分。
竜軌に悪役を負わせても欲しがる自分。




