善哉
善哉
薬缶の湯が沸いた。
今朝はよく冷えている。冬と怜の誕生日は近い。今着ているシャツ袖についた、シルバー925のカフスボタンは、去年の誕生日に真白がくれた物だ。
剣護が怜の顔色を窺いながら寝る前に設定していた暖房のタイマーにより、気温が穏やかになっていくのが判る。
薬缶からステンレスのケトルに入れた湯を、コーヒードリッパーに敷いたコーヒーフィルターの中の黒い粉末に円を描く要領で注ぐ。苦い快さが香り立つ。コーヒーの粉が湿るのを待ち、再び円を描く。雫の連続した落下音は聴こえるが、コーヒーポットが不透明なので視認は出来ない。
ざらついた土の質感が残る、ころんと丸いポットとドリッパーは剣護が蚤の市で買って来た物だ。市の賑わいやお祭りなどは剣護の好むところで、時折ふらりとそんな場所に出かけて行く。
(寂しがり屋)
だが人として男としての魅力は自分と違って大いにある。怜は周囲が言ってくれるほど、自分を高く見積もってはいなかった。
四回ほどケトルを傾ける動作を繰り返して、息を吐く。
「おはよー次郎」
マドラーでコーヒーを撹拌しているとドアの開閉する音のあと、青い半纏をずぼらに着た剣護がもそもそと出て来た。長い腕の先を袖口から出すまいと頑張っている。真白は色違いの赤い半纏を持っていて、少しだけ怜は羨ましかった。怜に半纏を着る習慣はない。
「おはよう、太郎兄」
「あれ、どしたのお前、おめかしして?てか寒くね?」
「今日は教授のお供で遠出するんだよ」
準備しておいた剣護のコーヒーカップにコーヒーを注ぐ。この後、砂糖とミルクが大量に投入されることを知っているので控えめに。剣護の目の灰色がかった緑とは趣を異にする渋い暗緑色の織部焼のコーヒーカップとソーサーは、数年前、怜が剣護の誕生日に贈った物に似ている。剣護はそれを不注意で割ってしまった。自己嫌悪で落ち込んだ彼は、それから弟に貰ったコーヒーカップによく似た物を蚤の市や陶器屋をはしごして見つけて来たのだ。怜は別に構わなかったのだが、剣護の気持ちが収まらなかったらしい。
いーのがあったぞ、次郎、ごめんな、と剣護がこのコーヒーカップを取り出して見せた時、兄の律儀さを微笑ましく思った。
怜自身のコーヒーは、旅先でたまたま立ち寄ったシックな器屋で手に入れた、若い作家の手になるカップに注ぐ。今日は普段より覚醒の度合いを早く、クリアーにしたかったので、濃いめにコーヒーを淹れた。教授の同伴者としてミスは許されない。
「山尾な、」
「うん」
剣護がどぽどぽ、とミルクを織部焼にぶち込みながら言う。
「死ななくて良かったな」
「そうだね。真白は、泣いてしまっただろうけれど」
怜はコーヒーを一口飲んでから答えた。真白が泣くと怜も辛い。
「次郎、お前さ」
「何」
頭が苦い深みに引き締まって行く。
「楽に生きろよ。人に気兼ねせずにさ」
怜が剣護の顔を見た。
「解ったよ。じゃあ借金を返して」
「………」
「………」
「お前は思い遣りのある優しい男だよ。な?」
「冗談だよ、太郎兄」
ぐいぐい、とコーヒーを飲み干す。
さあギアを上げろ、今日も戦いの一日が始まる。




