こなごな
こなごな
「僕は口うるさい美食家だ。レトルトは食べない」
二階からガラスの割れる音が聴こえた。乱闘するような物音も。
は、と一芯が母親瓜二つの人間を見る。服装から立ち居振る舞いから何から何まで―――――――――息子の嗜好を忘れていた点を除いては。
ゆら、と母が笑う。一芯にさえ悪寒を呼ぶような、底無し穴のような笑い。
これは人間か、と一芯は疑った。
「嵐下七忍が一。水恵」
名乗りの後、煙幕が生じて一芯は顔を庇った。手でもうもうと立つ煙を切るように払い、正面を向き直った時には、リビングには一芯の他、誰もいなかった。入口に運んだ重いキャリーバッグは、何の魔法かボロボロに破れた透明のビニール傘に姿を変えていた。
く、と奥歯を噛んで二階に駆け上がる。
「小十郎!」
黒いコートの男は満月のようなランプシェードの下にひざまずいていた。月下の騎士、という単語を弾き出す詩的な自分の脳みそを、一芯はこの時ばかりはかち割りたくなった。
廊下突き当りのステンドグラスが粉々に割れている。白い雲を突っ切ってグレーの空を飛翔する青いドラゴンが甘さを抑えてデザインされて、一芯は非常に気に入っていたのに。
畜生、とらしくない単語を吐き捨てる。猫も消えていた。当然ながら。
月下の騎士が風貌で予想するより低い声で報告する。
「逃げられた。猫の簒奪者は手練れ。得物は鎌」
「…二丁鎌の兵庫か」
「かと。面目なし」
小十郎は項垂れた。
「いや、僕も七化けの水恵にまんまとしてやられた。相手がうわてだった。さすがだな」
一芯は身を屈めて、青色のガラス片を拾った。
この季節に廊下が吹き曝しになるという惨状と、戻って来た本物の母と父にどう言い訳するかと考え、一芯は暗澹たる思いになった。今晩だけで織田に対する恨みが幾つもカウントされた。
「…悔しそうだね、こーじゅ。汚名挽回のチャンスはまたあるよ?」
忠実な臣下を慰めてみる。
「悔しい。二丁鎌の兵庫は、女好きのしそうな色男だった」
「どこに悔しがってるの」
どうにも小十郎には、昔からずれたところがあるのだと一芯は呆れた。
五軒ほど屋根の上を飛び移りながら疾駆したところで、兵庫は人気のない道に降り立った。左腕に抱えたグレーの塊に問いかける。
「おい、山尾。生きてるか?」
山尾が弱々しく口を動かす。
「なんでお前なの…」
「あ?」
「…真白様とまでは贅沢言わない。けど、どうせなら斑鳩に助け出されたかった………」
「お前、一回、死んでも良いぞ」
「野郎の腕に抱かれて救出される身にもなってみろよ、兵庫」
「メタボ猫を抱えて跳んだり走ったりする俺の身にもなってみろ。節制しろ、今日から」
「ダイエットは明日から…」
「お前、一回、死ねよ」
「一回は死んで猫になったんじゃんか」
手負いと知りつつ、減らず口を叩く猫の髭を兵庫は乱暴に引っ張ってしまった。




