表情筋
表情筋
西洋史の講義を受けたあと、真白は空き時間を大学図書館で過ごそうとキャンパス内を歩いていた。めぼしい本がなければ五行歌の創作に励むつもりだ。
行き交う学生たちにはパーカーや軽そうなジャケットの姿が見受けられ、ダッフルコートは大仰だったかと考える。荒太が見立ててくれた、上品なキャメル色のコートに早く袖を通したかったという思いもあった。コートについた留め具のトグルは水牛の角製で茶とグレーと白が混じり合ったような色柄をしており、触ると指につるつるする。
荒太が戯れに噛んだ時はカチ、と微細に鳴った。
昨晩から喉に違和感がある。
馴染んだ病の兆候だが、今は寝込む訳にいかない。荒太の世話が出来なくなる。健康優良児の代名詞のような彼は真白に甲斐甲斐しく気遣われることに味を占めて、だいぶ甘えん坊になっている。にこにこしながら、あーんと口を開けて待つ夫に、真白は燕の雛を連想しつつスプーンを運ぶ。夫の可愛い一面だと思う。
図書館入口横の植込みにしゃがみ込んで猫に餌を与える司書の姿が目に入る。真白のような図書館常連者以外には無愛想な彼女だが、猫は好きらしい。こけた感のある細い面立ちに笑みを浮かべている。真白は山尾を思い出した。金色の目を光らせて抱っこを狙いそうだ。
背後に、覚えのある気配を感じて真白は振り向いた。
声をかけようとしたところだったらしい相手は、行き場を失くした言葉を呑み込んで唇を引き締めた様子だ。
驚いた瞳孔が大きくなっている。
「青山さん。昨日は、ありがとうございました」
真白の礼に、青鬼灯は気を取り直して表情筋を動かし笑顔を作り出した。




