盲目
盲目
そのころ蘭は、美術館にいた。
ポール・ゴーギャン『逃亡』
裸の胸をさらけ出した褐色の肌の女の肩を、自らは服を着た男が抱く。
隣に立つ鬼小路聖良の香水は本日も大変濃厚で、蘭は嬉しい限りである。
(小悪魔。小悪魔、来い!)
彼が胸の内でそう強く念じていることなど誰が知るだろう。
その場に居合わせた人間は皆、ゴーギャンの芸術に見入る前に、蘭の顔に見入っていた。
お見合い初日と違い、今日の蘭はややくだけた格好だ。
ノーネクタイにセーター、茶のスラックス。
だがサックスブルーのシャツの台襟には貝ボタンが二つかっちりと留められ、セーターはノーブルな雰囲気漂うアーガイル。濃緑と濃い紅がシャツの柔らかい色を引き締める。
それにスエードの、黒に近いような茶色の靴を履き、消炭色のコートを腕にかければ「美術館に行く男」のお手本の出来上がりである。
それら品良く大人しめな服装が、蘭の派手な顔立ちをこの上なく引き立てている。
美術館の中で、歩く芸術を衆人は目の当たりにしていた。
聖良も今日は赤茶色のウェスタンブーツに八分丈、ウールで赤紫のズボンを穿き、白くふんわりした絹のブラウスに温かそうな銀杏色のポンチョを羽織って、見合いの日よりだいぶカジュアルダウンしている。
彼女は少しずつ、少しずつ、小悪魔である自分の本性を、見合い相手である佐野雪人に見せて行こう、と考えていた。いきなりどかん、と見せれば引かれる。かと言って、純情なお嬢さんぶったままで雪人と付き合いたくはない。結婚したくはない。願わくば、彼にあるがまま、小悪魔な自分を受け容れてもらいたいのだ。その思惑が叶うかどうか、聖良はドキドキしながら絵画を見ているようで見ていなかった。間違ってもゴーギャンやワーグナーが好きなどと口にするなよと母親には言われたが、聖良は雪人に正直に打ち明けた。ドン引きされなくて本当に良かった。
脳内は蘭で埋め尽くされている。
「この絵は画家の成熟した様式の実例とされているそうですね」
蘭が絵に目を向けたまま静かに語る。
「はい。純粋な補色によるコントラストによって構成され」
聖良も静々と答える。
「ええ。個々の色彩が強調され、」
「エキゾティックです」
蘭と聖良が笑み交わした。
(きゃああ百万ボルトの輝きいっ)
聖良の内心である。
「どうやら同じ本を読んだようですね」
「雪人さんも、『ヨーロッパ絵画の500年』を?」
「はい。付け焼刃で勉強しました」
微かに蘭が顔を赤らめる。
(かっっわいいい、なんっじゃそら!!)
聖良の内心である。彼女は蘭に首ったけだった。
「ところで聖良さん」
「はい」
この遣り取りは二回目だが聖良はそれどころではない。
「海岸はお好きですか?この時期は寒いでしょうが」
「寂しげに荒れた海も私は好きです」
蘭のホッとした顔に、聖良は内心で先程と同じ台詞を叫んだ。
次の問いは予測不能でしかなかった。
「…槍は、お好きですか?」
「え」
「あ、朱色な感じの」
フォローのようにそうつけ加えられても。
「……お嫌いですか」
美貌が寂しげな海のように曇る。
「いえとても好きですわもう大好き」
息継ぎせず答えた。
(例えこの人の頭のネジが何本抜け落ちていようと知ったこっちゃないわ)
聖良は恋に病んだ瞳で蘭を見つめた。
『プラハ国立美術館コレクション ヨーロッパ絵画の500年』より引用。




