冷たい風
冷たい風
次は現国、と思いながら光瀬薫子は高校の廊下を歩いていた。
トイレに行って手を洗う時、一芯から貰ったハンカチをくわえていた口から落としそうになり、首を伸ばして辛うじてくわえ直した。今度はしっかりと。危なかった。
栗色めいたボブの髪が、蛇口から出る水につきそうに揺れた。
髪の色は地の色なのだが、風紀検査の度に教師には疑いの眼差しを向けられ辟易している。親に一筆書いてもらってさえまだ嫌疑の念を消さない教師には嫌われているとしか思えない。
その生活指導の教師に一芯がさりげなく意地悪をするのも面倒だ。
品行方正な優等生で通している一芯は教師受けが良く信頼されており、生徒の身でありながら職員室にそれなりの発言力まで持ってしまっている。彼がその気になれば、度を越して生真面目で融通の利かない教師を周りにそれと知られずいびることも朝飯前だ。
薫子がやめてと言えば、僕はそんなひどいことしないよ、と靄か霞のように笑う。
(ストレートに曲がってるわ)
矛盾した表現だが、一芯には当てはまる。
「愛姫様。スカートの裾からジャージがちらり」
廊下の窓の外から聴こえる声にぎょっとする。突然、声がしたことに対してではない。古風な呼び名に対してでもなく、その内容にであった。
慌てて青いスカートの下に履いた、紺色のジャージをそそくさと、もっと上にまくり上げる。向けられる他生徒の目が無いことをその時点から確認して、窓ガラスの向こう、声の主に語りかける。
「なんっで姿を見せない癖にわかんのよ、こーじゅ!」
「千里眼にて」
「嘘を吐け」
「もっとたくさん?」
「舌を抜くぞ。吐くなっつってんだ、禁止の命令形だ、莫迦」
「お言葉遣いが…」
「なってないわよ、それが?ねえ、一芯を止めてよ」
急激な話題転換だがついて来られない相手ではない。
「殿を俺が。太陽を凍らせるほうが現実的」
「あんたも大概、ポエマーよね」
窓際に両手を突いて寄り掛かると窓ガラスを細く開けた。後ろを通る生徒がこの寒い中、と酔狂な人間を見る目を投げるのも無視する。ガラス越しでは声がくぐもって聴き取りにくいのだ。冷たい外気が頬を撫でる。寒いが心地好い。予鈴が鳴る。廊下にいた生徒たちが悠々と歩く教師陣を追い越し、角をつつかれた蝸牛のように教室に引っ込んで行く。薫子は現国の授業に遅参する覚悟をしていた。
そうなればあとはもう、本鈴が鳴ろうが知らぬ顔をする。
低く、外に声を出した。
「…信長公に本気で敵と見なされたくはない。一芯を、相手取らせてはいけない」
「その心は」
莫迦じゃないの、と薫子は思う。
決まっている。
「血を見たくないからよ」
「殿は負けぬ」
打てば響くように声が返った。
薫子は目をついと眇めた。
「そなたの妄信があれをけしかけておるのか。そうしてあれを死なせるつもりか。左様にならば妾がそなたを殺してくれるぞ」
「――――――――姫様から殿を奪うつもりなど、毛頭。だが今生で、同じ土俵にて戦える殿の、男としての喜びも察して欲しい」
「くだらぬ」
薫子は切って捨てた。
「ナンセンスよ、小十郎。時代を見てない、即してもいない。……何ゆえ男は、もっと美しきこと、愛しきことにのみ生きられぬかの。阿呆か」
「戦いもまた、美しく、愛しきものにて」
信念を述べる平淡な声を鼻で笑う。
「無知蒙昧。ナンセンスもここまで極まれば拍手したくなるわ。一芯が公と刃を交えようとしたら、あたしはひっぱたいて止めるから。止めなかったらあんたもひっぱたくわ」
窓ガラスの隙間から忍ぶ風の冷たさが腹立たしく感じて来たころ。
外から一言、声が返った。
「怖い」
「可愛い子ぶるな」
すかさず薫子はピシャリと言って窓を閉めた。




