研究史
研究史
コーヒーのお代わりを淹れてくれた妹に怜は労いの声をかける。
「ありがとう、真白。もう帰って寝なよ」
「卒論の調子、どう?」
「大丈夫だよ」
「だと思った。次郎兄だもの。卒業は当然、出来るだろうし、成績は優に違いないわ」
真白の信頼に怜は微笑む。お月様のように。
「…荒太君も、今が追い上げ時だって言ってたのに。入院で時間をロスしたわ。心配」
「あいつは要領が良いから、多少のロスがあっても課題はこなすさ」
怜の前にはノートパソコン。
学術書、資料、史料が秩序立てて机の上やフローリングの上に置いてある。雪崩が起きそうな危なげが無いところが怜らしい。日本中世史の研究者を目指す怜は、今から本格的に研究書、史料を読み漁り、自分の大学の図書館に目当ての本が無い時は、手続きして他の大学の図書館まで行って蔵書をコピーしたりしている。とにかくページ数が多いので、コピー代が莫迦にならないのが痛いところだ。
多忙な身の上だが、部屋が散らかり放題で見苦しいということはない。
高校のころから一人暮らしをしていただけのことはあり、片付けも整理整頓も過剰でない程度に出来る。部屋の内装はどことなくイギリスを思わせる、トラッドな怜らしいものだった。コート掛けにかかるトレンチコートは怜のような人間の為に誕生したのではないかと真白は考えている。
「来月はお誕生日だね、次郎兄。プレゼント、楽しみにしてて」
「ありがとう。真白、人のは覚えてるよね」
「自分のももう、忘れないよ」
「結婚記念日だからね」
「そう」
真白が荒太と婚姻届を役所に提出したのは、真白の誕生日である六月十日だ。
ここ数日、妹が家を訪ねては甲斐甲斐しく夜遅くまで自分や剣護の世話を焼いて行く理由に怜は勘付いている。
(成瀬不在の家が寂しいんだろう)
大学入学時から四年近く、共に暮らして来た愛する相手だ。
勘付いても口に出しては言わない。真白はおおっぴらに甘えることが下手で、優等生であろうとする癖がある。気付いた人間がさりげなく助けてやらねばならない。
「太郎兄が、真白が俺ばかりを構うと拗ねてたよ。顔を見せてあげたら?」
「えこひいきなんてしてないのに」
「解ってるさ、同じ兄妹だからね」
兄妹という言葉を混ぜ込む。真白の後ろめたさを減らす薬のように。
「俺はもう少し一人で研究史を見直して寝るから」
「…うん。じゃあ、剣護の様子、見て来るね」
妹が出て行ったあとのドアを、怜は眺めた。
(同時に二人の男を愛せるほど、あの子は器用じゃないからな)
真白が不憫だった。




