早く逢いたい
早く逢いたい
美羽は一人ぽつねんと、檜の浴槽の中にいた。
竜軌はいない。
左足の甲の傷が化膿しないか心配で、美羽が懸命にお願いして、竜軌に今日の入浴を思いとどまらせたのだ。
だが一人の浴槽は広い。広過ぎて海かと思う。
温かいお湯、温かい湯気、空気。
なのに温かい身体一つ足りないだけでこんなにも寂しく悲しい。
「りゅうき。りゅうき。…りゅうき?」
返事がないのは当たり前なのに。
当たり前が辛い。
何だ、美羽、と答えてくれない。甘やかしても髪の毛を洗ってもくれないのだ。
「りゅうきぃ…」
声がか細くなるのと比例して涙が出る。
ここまで甘えた女に成り下がってしまった。
くすんくすんとすすり上げる。
自分はもっと、強い女ではなかったか。だがそれは、虚しい強さではあった。愛を信じられない依怙地さに、裏打ちされた強さではあったが。
竜軌は胡蝶の間でふてくされて寝床に這いつくばっていた。
愛する女が自分の名を呼び、泣いている。
涙の落ちる幽き音まで竜軌の耳は拾える。
今は他の音を全て遮断して、美羽にだけチューニングを絞っているのだ。
伊達の痴話喧嘩を聴くのは面白かったがもうどうでも良い。
「そんな声で呼びやがるくらいなら、入らせれば良いものを」
ぼそ、と恨み言を言う。
ばい菌が入って左足が化膿して切断することにでもなったらどうするの、と美羽が真剣に涙目で懇願するので折れる他は無かった。
しかしそのせいで蝶の裸身が拝めなかった。檜の香る中で見るのは好きなのに。
バスタオルを外して美羽が身体を洗う一部始終を、実は竜軌は目の端でしっかり見ていた。焼きつけようと盗み見ていた。
霞のように立ち込める淡白い湯気の中、布が取り外され、徐々に美羽の素肌が広がっていく様は天女が衣を脱ぐ様を彷彿させ美しく艶めかしく、竜軌はいつも密かに胸を高鳴らせていた。
長い黒髪を鬱陶しそうに掻き遣り無造作にうなじを露出させる。普段の子供っぽさが嘘のように色気が匂い立つのだ。
湯の中では竜軌を信頼し切って、無邪気に身を寄せて来る。
どれだけ竜軌がその行為を喜び満足しているか、美羽は知らないだろう。
「泣くなよ、美羽。早く上がって来い。慰めさせろ」
早く蝶を甘やかしたい。涙を舐め取ってたなごころに抱いて包んで。
溶かしたい。自分だけを映す瞳を独占したい。
美羽が竜軌だけを見て竜軌だけに甘えて竜軌だけを欲しがる。
(俺がいなければ呼吸すら出来ないくらいに)
なれば良いし、なって然るべきだと思う。
(お前はもっと、俺のものになれ)
行方すら解らなかったころに比べれば、互いの距離ははるかに近い。
知ってしまえば知ってしまったで、人間はより貪欲になるのだ。




