禊
禊
肌に触れられることはなかった。
竜軌は何度も、美羽の身体に洗面器のお湯を流しかけた。彼の左足は包帯でぐるぐる巻きにされて二重にビニール袋がかけられ太い輪ゴムで口を縛られていた。今日は入浴するなと言う周囲の声を聴かない竜軌に、蘭が施した処置だ。
お見合いの結果報告をする前に、蘭は一張羅を着たまま救急箱を持ち出すことになった。
竜軌はとにかく、美羽と風呂に入るのだと言って頑として譲らなかった。多少みっともなくても構わんと本人が豪語した通り、だいぶみっともない格好になったが美羽は笑わなかった。
湯は手荒くならないよう、ゆっくりと注がれた。
「水垢離には厳しい季節だしな」
竜軌がぽつりと言う。
「俺は湯で身を清浄にするのもありだと思う」
温もりで身体を浄める。
修行者の人たちが聴けば嗤うか怒るかしそうな発想だ。
しかし美羽には竜軌の言いたいことが解る気がした。
冷たく厳しく突き放すのではなく、柔らかく包んで溶かし流しても良いではないかと。
手ひどい傷を負った身ならば。
冷水に、耐えられぬこともあるだろう。
「俺はお前を甘やかしたいからな」
言いながら、また湯を注ぐ。美羽の身体をじろじろ見たりもしない。
だから美羽も構えず、自然体でいられた。
こうしていると温室の中の二頭の動物になった気分だ。
(竜軌とつがいの)
数えきれないほど湯を注がれたあとは、いつものように髪を洗われる。
リンスの冷たい感触が頭皮に当たる時はぞくりとする。
竜軌の指は今日は特に念入りに動いていた。
「……髪が不揃いになったな」
惜しむ声で言われて、顎を引く。竜軌の指が動く最中だったので、頭がかくりと不安定に揺れた。
「また美容室で揃えてもらえ」
顎を引き、また頭がかくりと揺れる。竜軌が軽く笑う声が聴こえた。
「美羽。お前の悪夢はこれで終わる。洗い、流し、浄め、お前が負った苦痛、苦悩、痛手の全ては消え去る。消え去る」
消え去る。
二回、繰り返された言霊。
うねる黒髪に熱い湯が流れた。
「仕上げのおまじないだ」
竜軌は風呂椅子に腰掛けた美羽の正面に回り込み、ひざまずいた。ひざまずく時に痛みからか顔をしかめたが、すぐに何でもなかったような表情をした。
美羽は内心、莫迦、と思った。
黒い瞳が美羽の姿を映し出す。
「……神の御息は我が息、我が息は神の御息なり。御息を以て吹けば悪夢は在らじ。残らじ。阿那清々し、阿那清々し」
檜の香りの中に低い声は良く通った。
同じ言葉は三度繰り返され、竜軌は最後に美羽の額に息を強く吹きつけた。
「――――――もう、悪夢を見ることはない」
瞬きした美羽に竜軌が微笑した。
前述、『日本呪術全書』より。




