さよなら
さよなら
六王の切っ先が肉に埋まった。鉄が血を生む。
美羽は悲鳴を上げた。
「りゅうきっ」
「………これしき、どうと言うことはない」
黒塗りの、美しい、螺鈿と金の細工が施された素槍は、竜軌の左足の甲を靴下ごと刺していた。
六王が傷つけたのは秀比呂でも美羽でもなく、主である竜軌だった。
(どうして)
「…こうすれば、俺は義龍を殺す俺を、とどめ置くことが出来る」
竜軌は苦悶に顔をややしかめながら、言った。
「美羽。何を言われたところで、兄を庇われたところで、俺にお前は殺せない。……お前がそれほどまでに殺すなと言うなら、お前の願いを聴こう。お前を失うよりはましだ。俺はお前にゲロ甘で、首ったけで、でれんでれんだから。こっちにおいで、美羽」
美羽は秀比呂から離れ、竜軌の腕に飛び込んだ。
去る蝶の鱗粉の幻影を、秀比呂は見た気がした。
「殺せるかよ、この莫迦娘が」
美羽の黒髪に顔を埋めて竜軌が毒づく。甘い毒だった。
「りゅうき、りゅうき」
「愛してるわ、ごめんなさい、と仰せです」
坊丸が穏やかな声で、竜軌に教える。
「良いよ。お前が優しい蝶だってことは、ずっと前から知ってたんだ」
だから良いんだよ、と竜軌は泣く美羽に語りかけた。
「りゅうきりゅうき」
「あなたは全部、私のもの、と、仰せです」
坊丸が若干、言いにくそうに訳する。
「りゅうき、」
「……ええ、と、」
「坊丸、ちゃんと言わんか」
「は、はあ。…今夜はずうっと眠らせないで。………そのように仰せです」
血のあとばかりのせいではなく、坊丸の頬はうっすら紅潮していた。
竜軌の表情が、雪解けの春の水のようになる。薄紅色の空間で湛えるに相応しい表情だった。
「良いよ、美羽。お前にやろう。仰せのとおり、今夜は眠らせまい。無粋に六王を横に置く真似もするまい、やっと本当に二人っきりだな」
美羽が竜軌に更に強く抱きついた。
微かな煙草と、蠱惑するような甘い匂い。
金木犀よりも好きになった竜軌の匂い。
秀比呂は腕から去った蝶と、それを抱き締める竜軌を見ていた。
がほ、と咳き込むと大量の血が飛び散る。
(…ああ。遠いな……)
蝶は遠く、死は目の前だ。
黄色い樹の葉がふるえる。
樹の葉が降っている。
やさしいもの、なつかしいものが残らず
枯れて、沈む、墓の中へ。
秀比呂はハイネの『逝く夏』を好んでいた。
――――心の底の底から
泣かずにはいられない気持がする。
今この有様がわたくしに
恋の別れをまたしても想い出させる。
(幸せか?帰蝶。……ならば。ならば、もう)
――――――お前と別れるさだめだった。
まもなくお前の死ぬことが判っていた。
私は去りゆく夏であり、
お前は枯れゆく森だった。
(まもなく私の死ぬことが判っていた。お前は去りゆく夏であり、私は枯れゆく森だった)
美羽が心配そうな顔で歩み寄って来る。
(来るな、帰蝶、汚してしまう。よご、して―――――――)
美羽が秀比呂の額に触れた。ひび割れた顔面は涙で濡れている。
「帰蝶。…すまなかった」
過去、義龍と呼ばれた男の、最期の言葉だった。




