打つ
打つ
悲しい兄に手を伸ばして抱いた。
腐臭のようなものが漂い、手も顔も、目に見える皮膚はひび割れ、赤くも黒くも見える衣服ごと、人を捨てた人の身を美羽はかいなに抱いた。
嘗て自分を、自分の信頼を親愛を、踏みにじった男。
狂気の渦に美羽を引き摺りこんだ男。
おぞましくとも抱き包まねばならなかった。
「………退け」
これ以上ないほど低い、竜軌の声。
「りゅうき」
美羽の言葉に、坊丸は目を剥かずにいられなかった。
「美羽様っ!!」
何ということを、と坊丸が苦しげに言う。
〝それなら私は、この人と逝ってあげなければならない〟
美羽はそう言ったのだ。
「それはならぬ、出来ぬ筈です、あなたは上様を愛しておられる!!」
「…美羽は何と言ったのだ、坊丸?」
「申せませぬ」
竜軌の問いに答えることを、坊丸はすぐさま、断固として拒んだ。
(竜軌。あなたを損なわせない為に、この人の涙を忘れない為に)
美羽は秀比呂の身の内に蠢くものを衣服越しに感じながら、再び口を開いた。
「りゅうき」
「坊丸?」
「申せませぬっ!」
〝諸共に六王で刺し貫いて〟
美羽の言葉を坊丸は復唱出来ない。
「美羽様はお解りでない、美羽様を失えば、上様とて生きてはおられませぬ。全き幸いなど夢のまた夢、あなたを想い、絶望の内に果てられるのだとなぜお解りにならぬのかっ!!」
激昂した坊丸の怒声を聴いて、竜軌は美羽の言ったことの察しがついた。
「殺せと、言ったのか?美羽」
美羽は秀比呂を腕に抱いたまま、後ろを少し向いて微かに頷いた。
「違いまする、上様!」
「俺に、お前と、義龍を?そうだな?」
「上様、お聴きください、美羽様は混乱しておられるのです、決して本意からのお言葉では、」
「黙れ、坊丸。…お前は、結局、俺よりも兄を選ぶのか?」
何て悲しそうな顔をするの、と竜軌を振り仰いだ美羽は思った。
違う。そうではない。そういうことではない。
誰より竜軌を選ぶから、兄を捨てられないのだ。
どうして言葉を流暢に操れる身の上でなかったのだろう。
今ほど、竜軌に多くの言葉を訴えたい時はないのに。
坊丸はもう伝えてくれない。
美羽の頬を滑った涙が、秀比呂の膝を打った。
極めて軽やかな衝撃が、秀比呂の胸を打った。
「……帰蝶?」
(私の蝶が、泣いている)
坊丸は地を蹴った。二振りの雨煙を手に、走った。
主君を止めなければならない。このままでは取り返しのつかないことになる。
竜軌が無造作に六王を振りかざす。
表情は消え失せ、凍てついた面だった。




