語らわれた
語らわれた
「荒太が盲腸をやらかしたらしくてな」
布団の中で、寝物語のように竜軌が美羽に語って聴かせる。
右肘を枕に突き、美羽を見つめながら。
ずっとそのことを考えていたのだろうか。でもいつそれを知ったのだろう。
美羽は竜軌を見つめ返す。
優しい黒い瞳が、もう大丈夫だと告げていた。
真白が心を痛めただろうと美羽は心配した。彼女は夫をとても愛している。
竜軌が左手の甲で美羽の頬を撫でた。
「大丈夫だよ」
美羽は頷いたが、それでもまだ泣きそうな顔に見えたのだろう、竜軌も困った顔をした。
「…大丈夫だよ」
傷ついた小動物に差し出すような、さっきよりも優しい声音に、美羽はまた頷いた。
「それにな。この世には最も怒らせてはならないという奴がいてな」
「…りゅうき?」
「俺も怒るとそれなりだが、もっとずっと怖い奴がいる」
美羽は眼差しで答えを求めた。
怒り狂う竜軌の上を行く存在を考えつかない。
「真白だよ」
(…真白さん?)
言われて意外な名前と感じるが、彼女の舞うように美しい体術を思い出す。
けれどたおやかで儚げで、身体もそう丈夫ではない。
あの優しい佳人を、竜軌は恐れているのだろうか。
「…敵の狙いは正確だったが、奴の盲点は真白の何たるかを知らなかったことだ。知れば荒太より真っ先に、真白を排除しようとしただろう。だが、もう遅い」
敵。
竜軌は婉曲な表現をしたが、それはつまり美羽の兄だった人のことだ。
荒太の盲腸と、関係があるのだろうか。
美羽の中に忌まわしい記憶が浮かんで来そうになり、ぎゅ、と身体を縮めた。
「荒太を害した奴に真白は激怒するだろう。丁度良い。あいつは容赦加減をし過ぎる嫌いがあるからな」
そんな風に言っては駄目だと美羽は思う。
人を手駒みたいに、自分の道具の一つみたいに、考えるような生き方をしてはいけない。
人生が荒んでしまう。吹きつける砂埃のようなもので竜軌の輝きが曇ってしまう。
(あなたは幸せにならなければならないのだから)
「…なぜそんな、切ないような、泣きそうな目で見る」
〝周りの人のことを、もっと大事に考えて〟
「………俺はお前を誰より優先して考える」
嬉しいけれどと美羽は眉をひそめる。
〝お願い。あなたも周りの人に、大事に考えてもらえるように。私、大切な竜軌を、人にも大切にしてもらいたいの。私がもし消えても、私と同じくらい、あなたのこと、身体を張ってでも全力で守って、幸せにしようとしてくれる人が増えて欲しいの。竜軌。何が何でも幸せになってよ〟
竜軌が変な顔になった。唇が、何か言おうと動きかけるが、出る声の無いままに閉ざされる。
右腕を退けてずる、とこちらを向いた状態で枕に頭をつけると、顔を覆う。そ、と彼の左肩に手を乗せたらその腕を捕らえられた。竜軌の顔を覆っていた右腕は美羽の右肩に向かう。
これまでにない真顔で、美羽を見つめる瞳は夜の色。
夜が少し伏せ気味になり、美羽に近付く。
睫が意外に長いとこんな時に判る。
美しい人。
静かに唇が重ね合わされる。静かに帯が解かれて、大きな身体がゆっくりと降って来る。
温もりは熱に移行する。
夜は静穏に過ぎた。
一度も愛していると言われなかったのに、これほど愛されていると思えた夜は無かった。




