省みてのち前を見よ
省みてのち前を見よ
まさか対岸から野球ボールが投げられるとは思わなかった。
荒太の頭に硬球が当たる。コントロールが良い上に痛い。
「何で侍が野球ボールや!」
また突っ込まざるを得なくなった。そんな場合ではないのに。
「ここは三途の川であって同時にお前の世界でもあるからや、カス」
カスとまで言われてしまった。口の悪い先祖もいたものである。
「おい荒太、お前に話がある、ちょう来い、いや、待て待て、来るな。…危なかった」
「あ、俺、今日はちょっと時間無いんで、また来ますね、」
お得意の営業スマイルを浮かべる。
「抜かせ、何十年後のつもりや、こら逃げんな!」
荒太はすたこら後ろを向いて去ろうとした。まだ死に装束でもなく、家にいた時のままの服を現時点では着ているし川を渡っていないし、今から戻れば間に合う筈だ。
「真白さんが転んだっ」
荒太はびくりと立ち止まり、川のほうを振り返った。
「はい、振り返った。お前の負けや。戻れ」
若武者が飄々と手招きする。
「卑怯な奴。武士の風上にも置けんな」
なぜか足が強制的に川に向かって戻っている。この世界のルールなのだろうか。
「厳密には武士とちゃうし。ええか、よう聴け。お前は真白さんに助兵衛過ぎる。改めろ」
カウンターパンチがいきなり荒太の急所に炸裂した。
「………赤の他人が口出しすな」
「はあ?誰が赤の他人?やっぱお前、こっち来い、莫迦は一遍、死んで直せ」
「行くか莫迦」
「あかん。殴りたい、殴りたい。真白さんは何でこんな男を選んだんや。前世と違うて見る目無いわ」
「行く。行くで、殴ったるわ、お前!」
「来るな莫迦!」
「どっちやねん!!」
「俺は妻に早死にされてから死ぬほど後悔した。今、俺も死んでるけど」
「――――――」
「言うとくけど、俺はお前より妻を大事にしたぞ。大事に大事にして、美味い料理を拵えて、食べてもろた。笑った顔が綺麗やのに可愛くて、娘が生まれてからは妻の争奪戦や。娘の奴、気性は俺に似て、あんま可愛くなかったさかい。まあ、嫁入りの時にはさすがの俺もこっそり泣いたけど」
「話が脱線気味やぞ赤の他人もどき」
「まあ、真白さんも可愛いな」
相好を崩した若武者に荒太はむきになって主張した。
「真白さんが、可愛いんやっ」
不意に若武者の視線が刃になる。
「ならもっと大事にせえ。兄上どのに取られるぞ」
荒太はぐっと詰まった。
「どんだけ大事にしてもなあ、大事にし過ぎることはないんや。もう失う他ないって解ってみ。尽くし足りんかったって思わずにはいられへんもんや。思う俺の目の前で、あの人は、死んだ」
そよそよと、どこからか吹く風を受ける顔が、荒太を見据えて言った。
絶望したんだよ、と顔が告げていた。
「言うたかてお前、真白さんは俺の妻よりも病弱やしな。なあ、優しゅうしてやれ。ベッドの中で苛めんな、ドS」
「変態」
「お前や。ほなな。俺はもう行くで、荒太。若雪どのが待っとるさかい。お前ももう帰り。真白さんが待っとるやろ」
荒太は若武者の顔を見た。
腰刀――――――――。
〝厳密には武士とちゃうし〟
若武者は、今は穏やかに笑っている。
「お前」
「振り返るなよ、荒太。振り返らずに、真っ直ぐ戻るんやで」
あたりが明るく白くなり、川も男も消えた。




