龍は蝶を追う
龍は蝶を追う
愛しい蝶。
秀比呂の愛しい蝶がまた、信長に囚われていた。
(助けてやらねば。私の、帰蝶)
赤い蠢きの中で秀比呂は顔を覆う。覆う両手は、赤くひび割れて光っている。
身体の中がぐじゅぐじゅとして気持ち悪い。
(なぜ、笑っていたのだ、帰蝶)
信長の腕に抱かれ、得も言われぬ嬉しげな微笑みを浮かべていた。
嘗て義龍に向けたような、無邪気な愛情がそこには溢れていた。
(そなたが愛していたのは私だ。私がそなたを愛したようにそなたは私を愛した筈だ)
それが秀比呂に残されている真実。
(涙を流しながらも、私に愛されて、笑って、)
いた筈だ。
それが秀比呂に残されている真実。
〝花も葉も、ただただ散るは無念であろう〟
ふと揺らめき立つ声が聴こえた。
遠い遠い春のこと。
(…明朗に語った若者がいたな。名は、名乗らなかったが)
武将には向かぬ気立てと言われ、心の内で苦笑した。
父や家臣のみならず、行きずりの者にまで言われるかと。
だが不思議と不快ではなかった。それまでと異なり胸に凝るものが無かった。
粘着性の無い、からりと乾いた声だったからかもしれない。
(私にも、懐かしむ過去が無いではない。だが戻れる場所も、戻りたいと望む時もない)
義龍と呼ばれた男に残されているのは、蝶を追う妄執だけだった。




