あるなし
あるなし
帰蝶の顔は青くなっていた。
滅多なことでは顔色を変えない気丈な妻の異変に信長は気付いた。権謀術数に長けた武将らを知るゆえに、彼は人の機微には敏かった。
〝何があった、帰蝶〟
〝何も無い〟
〝下手な癖に嘘を吐くな!〟
〝何も無い、…信長を、好いておるだけだ、〟
それだけを言って涙を滲ませた帰蝶を胸に抱き、信長は安土城の隅々まで耳を澄ませた。
そして、聞き逃せない言葉を捉えた。
〝―――――信長。何をしている〟
帰蝶の声を聴いた信長は胸中で舌打ちした。
遠ざけておけと命じたのに。
男の腹から六王を無造作に引き抜く。
血が飛び、男が呻いた。
〝去れ。戻るなよ〟
どのみち生き延びれまいとは思った。六王は男の腹を深く突いた。
〝信長〟
〝帰蝶。寝所で待て。俺は湯浴みして来る〟
血を落とさなければ触れられないと考える。
閂を外した戸から、男は庭の外によろめき出て行く。
夜闇が不愉快な血の跡を隠したので、信長はそれ以上、猛らずに済んだ。
だが帰蝶は聴かずに侍女の手も振り切り、華麗な打掛姿のまま駆け寄って来る。
〝来るでない、汚れるっ〟
〝なぜ、刺したのだ、〟
〝お前は俺に知れたことばかりを尋ねる〟
〝…え?〟
〝己を傷つける暴言を耳にしながら、俺に言わずして耐えようとする。愚かだ、〟
昂りながら言う一方で、優しい女なのだとも知っていた。
〝不生女と陰口を叩かれて〟
帰蝶の美しい顔立ちが凍りついた。彼女は唇を震わせながら答えた。
〝知れば信長が、左様に怒る。…見とうはなかったのだ〟
〝侮辱を受けて引き下がるな!〟
〝信長が地獄に落ちるのは嫌だ!〟
悲鳴のように叫んだ帰蝶に、信長は眉を寄せた。
〝何の話をしている〟
〝血を。流し過ぎてはならぬ。信長はもう、たくさん、たくさん血を流した。左様なことでは、地獄に落ちてしまう、嫌だ、信長と、死んでからも離ればなれになりたくはない〟
帰蝶が泣き崩れた。
〝…地獄など無い〟
泣きながら帰蝶はかぶりを振る。
〝やもしれぬ。やもしれぬが、確かなことは誰にも言えぬであろう。万一、〟
万一が無いことを知る信長は、唖然として帰蝶を見つめた。




